人文学と法学、それとアニメーション。

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スピルバーグ監督『The Post』(邦題『ペンタゴン・ペーパーズ』)──報道の自由生成に向けた綱渡り

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1 はじめに

 本作は、アメリカ合衆国表現の自由を巡る最高裁判例史にその名を刻むNew York Times Co. v. United States, 403 U.S. 713(1971)をモデルに、New York Timesではないもう一社の被上訴人Washington Postの社長キャサリン・グラハム(メリル・ストリープ)、報道主幹ベン・ブラットリー(トム・ハンクス)らの奮闘を描いたノンフィクションである。本作を見ることで、表現の自由大国であるアメリカにおける表現の自由保護というものも、決して空中からポンと出てきたものではなく、無数の人々の、権力からの様々な圧迫をはねつけるギリギリの選択のなかで生成されてきたものであるということが生き生きと伝わってくる作品である。

 Post社におけるヴェトナム戦争関係極秘文書(ペンタゴン・ペーパーズ。国防長官の名前をとってマクナマラ文書)の掲載決定はすんなり行ったわけでは全くない。社主キャサリンがまずもってマクナマラ元国防長官夫妻の友人である他、既にTimesが裁判所から機密保持法に基づくレーガン政権からの公表差止を命じられており、もし違反すれば裁判所侮辱罪に問われ記者もベンもキャサリンも刑務所行きという状況下で、いわばセカンド・ペンギンを狙おうとしていたのがPost社であり、社内弁護士、保守派役員はリスクがあまりにも高いとして当然反対。しかも、当時一地方紙であり一族形成の小さな新聞社に過ぎなかったPostの株式上場中であり、株式引受人たる投資家たちとの契約書の中には、「重大な事由」が生じた場合には契約を解除できるとする条項が入っていた。なるべくなら面倒ごとは避けたいタイミングである。

 このように掲載を躊躇する事情を積み上げることによって、その決断が決して容易なものではなかったことが浮かび上がるのである。

 

2 報道への圧力と不断の努力──翻って、2021年現在の日本

「個別の番組によって、放送事業者が違法行為を行ったと認定される可能性があるとしたら、組織の中で働く番組作成担当者らに大きなプレッシャーが働くのは想像に難くない。しかも、上記の質問と答弁は、「最近」の「国論を二分するような政治的課題」として、明らかに特定の政治的争点、すなわち集団的自衛権行使容認をめぐる論争を念頭に置いて、その報道のあり方をけん制する文脈の中でなされているのであり、そこでの大臣答弁は、いくら「一般論」と言われても、現実の番組作成者にとっては軽視することのできない意味をもつ。安倍政権の安全保障政策に批判的な内容を含む番組が、規制権限を有する大臣によって番組編集準則違反で違法であると認定される可能性が存在するということが示された以上、放送局全体に迷惑をかけないためには、これまで以上に政治的公平さに注意を払わなければならなくなる。」(毛利透「表現の自由と民主政」阪口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か: 理論的視座と現況への問い』(法律文化社、2017)27頁)

 

「番組編成準則との関係では、現在のテレビの報道が明らかに同準則に違反していると、やはり私的団体だからこそのおおらかさで主張し、その「遵守」を求める市民団体が活動を活発化させていることも、「萎縮」を生み出す社会的雰囲気の強化に一役買っている(読売新聞2015年11月15日6面などの「放送法遵守を求める視聴者の会」意見広告)。もちろん、現状の放送のあり方に不満をもつ市民が結社を組織して、自分たちの考える放送法に沿った方向に放送内容を変えさせようと運動することは、全くの自由である。しかし、当該団体は、安倍政権に近い立場の人々が主たる構成員であり、しかも監督官庁の規制強化の方針を好意的に評価しつつ、まさに個別具体的番組について、「補充」された方針を適用すれば違法となるとの評価を下している(「放送法遵守を求める視聴者の会」。ウェブサイト…中略…より)ここでも、公権力が(言いたくても)言えないことを、それと連携しつつ私的団体が言うことにより、その主張内容を考慮せざるをえない状況が生み出されるという構造が現出しているのである。無論、団体の当事者は、公権力と結託して活動しているつもりはないと主張するかもしれない。しかし、両者に実際にこのような近接関係がある以上、自己の経営がかかった放送事業者が、当該団体の主張を一番私的団体のものだと割り切ることは困難である。「萎縮」は、このように公権力と社会的運動とが連携し、後者の、放送の自由よりも番組編集準則を一方的に強調する「自由」な主張が、単なる一言論を超える意味をもつようになる社会状況で、より効果的に働く。」(同30頁)

 

「現在の日本の表現空間が「自粛」しているという主張に対しては、そんなことはない、萎縮しているなどというのは、マス・メディアなどの表現主体に対して失礼だ、という反論がなされる場合もある。あるいは、その裏返しとして、もし本当に萎縮しているなら、それは萎縮するような弱い表現者側に問題がある、とされることもある。たとえば高市大臣は、「私は、私自身に対するここ一週間ぐらい(本書冒頭の停波命令の可能性を認める発言後の期間のことー引用者注)の報道を見ていましても、決してメディアは萎縮されていないと思います。もう本当に、それぞれ報道に携わる方々が矜持を持って伝えるべきことを伝えておられる、そのように思っております。」と述べているが(第194回国会衆議院予算委員会会議録第13号(平成28年2月16日:7)、これは前者の例であろう。一方、安倍晋三内閣総理大臣は、自身が出演したニュース番組で報道内容に批判を加えた(その直後に、上で述べた自民党からの要望書が出されることになる)こととの関連で「番組の人たちはそれぐらいで萎縮してしまう、そんな人たちなんですか。情けないですね、それは。極めて情けない。」と言いつつ、「夕刊紙」を挙げて「見事に、日本では言論の自由が守られているんですよ。」と述べている(第189回国会衆議院予算委員会会議録第16号(平成27年3月12日):36)。日本で表現の自由は法的には十分保障されており、もし自分の発言程度で萎縮するなら、それは萎縮する側に問題があるのだという趣旨であろう。確かに、メディアが自分たちの報道姿勢として、萎縮するような弱みを見せてはいけないと自戒を込めて確認することが大切である。しかし、そのことと、現在の日本において表現の自由が十分保障されていると言えるか、とは別問題である。安倍首相は、「表現の自由とか言論の自由を常にいかなる状況にあってもしっかりと確保するだけの状況をつくるのが総理の仕事」であり、首相からの報道機関へのクレームを自己の言論の自由で正当化することができないという趣旨の質問に対し、「まったくそれは認識の間違いだと思います。」と返答し、自分が番組の中で正しい報道を求めて意見を述べるのは、議論に加わっているだけであって何の問題もないとの立場を示した(第189回国会衆議院予算委員会会議録第16号:35-36)。これは、自らの権力行使、あるいは権力行使の予告が表現の自由行使を窒息させかねないことへの畏れに欠ける発言と言わざるを得ない。当然ながら、内閣総理大臣は権力を握っている点において、スタジオに入るその他の人々と対等の立場にはいない(蟻川2016:291)。一私人の発言がそのまま国家の政策となる可能性は限りなく低いが、首相の発言はそうではない。対等の立場で議論を楽しむことができるのは、皆の主張が実現可能性の乏しい単なる意見である場合に限られる。その場合には、皆が自分の主張の説得力を言論で競い合うことが有意義である。しかし、その中の一人が、自分の政策を議論とは関係なく実現できる権力を有しているなら、話は全く異なる。」(同30-32頁)

 

「権力をもっているものは、自分の意思を貫徹しようと欲する際に、その意思を普遍的・一般的に正当化する、つまり根拠づけるために理性を用いることを強いられない。権力を用いればよいのである。そして、そのような立場に置かれた者は、元々いくら有能な人物であったとしても、理性を使って他者を説得するよりも、手っ取り早く権力を用いるようになるであろう。他者の意見に応対しつつ自分の意見を根拠づけようとするのは、誰にとっても大変な労苦を伴うやっかいな作業だからである。かつてカントが、「権力の所有は、理性の自由な判断を不可避的に損なう」と述べたのは…(略)…人間は理性を有している一方で、できればその理性を用いる負担から免れたいと望んでいるという二律背反性を、彼がよく理解していたからである。」(同36頁)

 

 日本国憲法12条前段は、次のように規定する。

 

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。

 

 我々国民は「不断の努力」を払っているだろうか。

 自分たちの感情を満たすためだけに権力に阿り、忖度し、差別に対し沈黙し、差別を助長していないだろうか。

 かつてのメディアスクラム京アニ放火事件を代表とする実名報道のあり方など、マスコミにも批判すべき点は多々ある。しかし、その個々の批判を超えて一般的に形成されたマスコミに対する悪感情ゆえに、権力側が国民大衆と組んで、マスコミの権力監視機能を骨抜きにするような動きには断固反対しなければならない。それは、マスコミの決意や意志が弱いことだけの問題とはいえない。マスコミも仕事の一つにすぎず、内部で仕事をする人間からすれば面倒なクレームがつく政権批判ないし政治ネタは避けて無難なバラエティでも作っておけばよい、となるのが常である。そのツケは国民が常に払ってきたし、払うし、これらからも払い続けることになる。本当にごくごく一例に過ぎないが、たとえば、森友問題の隠蔽が生真面目な官僚・赤木俊夫さんの自殺を招聘したというような形で。これは全くほんの皮切りに過ぎない。

 

3 子供たちのために、誰かが立たねばならないこと

 キャサリンは決断直前、寝室で寝ている孫の頭を撫でながら、娘と、ペンタゴン・ペーパーズ掲載によりPost社を潰すことになるかもしれないと不安を打ち明ける。しかし、娘はそれでかまわないという。そう、ここでキャサリンがPost倒産のリスクを取ってでも報道しなければ、この子、孫に対して計り知れない害が及びうるという厳然な事実。その可能性の指摘である。

 

 そしてそこで言う「子、孫」は、何もキャサリンの血族だけの話ではない。口頭弁論時に最高裁に入るために列に並んでいたキャサリンに、「関係者はこちらから入れる」と声をかけた弁護士事務所の女性事務員が、しかし国側弁護士事務所の事務員であったにもかかわらず、キャサリンに対して「これは上司には秘密にしておいて欲しいのですが…」と言った上で、「私の兄は従軍してまだヴェトナムにいます。だから、勝って。」と告げるシーンがもう涙なしには見れない(何なら文章を綴っている今この時にも涙が出ている……)。こういう名もなき一人一人の人たちに対する話でもある。それが報道の自由を担うマスコミの責任なのである。

 

 果たして最高裁判決は──。

 Per curiamで出された多数意見は6対3でTimesとPostの勝訴。

 Post社で電話を取った女性社員が読み上げる、ブラック判事の同意意見は、“The press was to serve the governed, not the governors. ”(「プレスは統治者のためではなく被治者のために仕える。」)(New York Times Co. v. United States, 403 U.S. 713, 717 (1971)(Black, J., concurring))

 

 以上に加えて最後もあまりにもシビレる。

 民主党本部オフィスに夜警の警備員がライトを持って近づき、「もしもし、こちら警察です」「こちら警備です。ウォーターゲートビルに何者かが侵入した形跡あり」というノイズが入った警察通報のやりとりで終わるシーンがこれである。すっかりやられてしまった。

 記事掲載までのポスト内部での綱渡り、いつ握りつぶしていても不思議ではなかった諸事情をギリギリ渡ってきた先に出された報道の自由を保障する最高裁判決に鑑みるとき、もし、TimesとPostが、あの手この手のニクソン政権の圧力に屈してペンタゴン・ペーパーズの報道を差し控えていたら、政権の体面のためだけにヴェトナムで米国軍人だけでなくベトナム人の戦死者、負傷者が出続けた可能性が十分あるという恐ろしい事実。そして、その先にあるニクソン大統領の弾劾にまで至るウォーターゲート事件が明るみにすら出なかった可能性。

2012年以来、マスコミが自公政権の圧力に屈して2021年まで来、ウォーターゲートが握りつぶされたのが日本の現状であると言って過言ではないだろう。

 批判の自由の確立のために。

 もっといえば、単なる自由の確立のために。

 そのためには、誰かが声をあげなければならない。

 そこに自分しかいないのであれば、自分の役が回ってきたのだと腹をくくって、声をあげなければならない。

 次のヴェトナム戦争を、ウォーターゲートを、見逃さないために。