人文学と法学、それとアニメーション。

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資本主義システムへの、あるいは特別な何者かになりたいという欲求への、ささやかな抵抗━━『Sonny Boy』試論

1 はじめに

 

『Sonny Boy』は学校のみが異世界に漂流するという基本設定や超能力の話、しゃべる犬猫、毎話毎話出てくる奇天烈な世界が特徴的な作品である。そして、作画や劇判もさることながら、主題系方面の読解も難解な作品である。

 

そこで、本稿ではまさにその主題系に焦点を当ててその読解を試みたいと思う。

 

そして、本論に入る前に、ざっと全体構造の見取り図を素描しておく。

 

まず、1から5話が異世界や超能力の話であり、しかしそこでは長良がなにか主体的に動くということはなく、無気力に周囲の意見にただ従うことを希と瑞穂から前者は叱咤激励、後者は鋭い批判の形で指摘される。これは、後半の自分で考え決断できる長良の下準備期間である。6話で長良が「観察者」であり、この世界を作っていることが映画館の比喩で自己言及的に語られる。そして7話のバベル回で、長良の意思で上下が逆になるシーンが描かれ、ここが転換点であることが明示される。そしてそれ以降の8、9、10話を経て11、12話である意味一番無気力だった長良と瑞穂は、現実に戻る決断をする。

 

***

以上を前提に、主題系として何が語られているか?

 

まずは、『漂流教室』(ライングループ名でもある)を本歌に、そこに2021年段階で判明している量子力学とか超ひも理論とかそのあたりの話を詰め込めるだけ詰め込んでアップデートした作品、と見ることができる。

 

加えて、全体としては1話と12話をつないで、白紙の進路指導調査しか提出できなかった長良が、少なくとも自分の意思で判断して前を見ることができるようになった、という成長の物語であると見ることもできる(そして、それは何も長良に限らず、瑞穂や、朝風についても言えることである)。

 

しかし、「思春期の少年少女の成長を描く」というだけでは、まだ漠然としている。

 

そこで、より具体的に、「では、どのように成長したのか?」という点を解明しなければ、この作品を理解したとは言えないだろう。

 

そして、成長の前には、問題とその解決がつきものである。

 

では、問題とは?

 

成長とは?

 

順に見ていこう。

 

2 問題──資本主義システム

 

本作は、異世界ものであるにもかかわらず、2話で交換システム(通貨システム)が作られ、結局資本主義経済が立ち上がり、皆が労働を始める。

 

その意味では、別に異世界も現実世界と変わらないのである。

 

異世界ものであるからには、別に資本主義を無視することもできたのに、あえてそれを描くということは、そここそを描きたいということであろう。

 

そして、資本主義にまつわる問題群は随所随所で登場する。

 

それは、1話のニャマゾン[1]、2話のラジタニ考案交換システムからはじまり、3話の黒塗り失踪≒労働からの疎外の話、5話冒頭のネズミの世界の話、7話のバベルでの労働と希望の話・・・など、極めて多岐にわたる。そこで、ここでは、まず5話冒頭のネズミの世界の話が非常にわかりやすいため、そこを分析してみる。

 

このことは、前半のまとめ回にあたる第5話のエピソードで示唆される。

パックマン風のレトロゲームの世界。

ネズミは黄金を集めているが、敵キャラに追いかけられており、追いつかれると食べられる。

 

瑞穂「ネズミ、かわいそ」(敵キャラに食べられたネズミを見て)

朝風「じゃあ俺が悪者潰すから、お前らは取りこぼしを・・・」

長良「だめだよ」

朝風「はあ、なんだよ」

瑞穂「穴が崩れて誰も生き残れないよ」

長良「それじゃ解決にならない」

瑞穂「そうだよ。ちゃんと私たちがこの世界を攻略できなきゃね。じゃないと、ご褒美もらえないんだからさ」

朝風「チッ」

(希、赤いネズミを触る。ステージが波打って希の方へ。)

長良「希!」(希を助ける)

(朝風、能力でステージを鎮める。)

長良「怪我は?」

希「大丈夫だよ、ありがと」

朝風「こんなことしてて、意味あんのかよ。」

長良「それは・・・」

朝風「どうせここもハズレだろ」

希「やってみなきゃわからないよ」

 

希「いくつかは目標としてた世界に行けてたんじゃない?」

(長良笑顔)

ラジタニ「んー、だけど、たまたま偶然行けたって感じだね」

朝風「運任せのガチャってことか。いつか当たりがくんだろ。ずっとやってりゃいいよ。」

希「んー、そんな簡単に済む感じはしないんだけどなー」

 

長良「ごめん。」

ラジタニ「ん?どうして謝るの。失敗すればするほど成功の可能性は高まるんだ。」

希「そうだよ。ここじゃ明日はいくらだってある。」

長良(ハッとする)「うん」

朝風「ここがいつまでも続くなんて、なんの保障もないだろ。」

ラジタニ「それもそうだ。だけど偶然に期待してもしょうがない。僕らは元の世界への道標を見つけ、移動の手段も手に入れた。その二つを繋ぐ何か。それは能力なのか、この世界なのかわからないけど、もう一つのピースが必要そうだ。幸い、新しく見つかった能力の形もあるし。」

希「うん、光も近づいている。今日も昨日より。」

 

希「よし、この世界からネズミを解放しよう。」

長良・朝風・瑞穂「うん」

希「この世界にも希望がないわけじゃない。ネズミの革命者を助けて、この世界の仕組みを置き換える。黄金が絶対じゃない世界、違う価値観のステージもあるはずだよ。」

(朝風能力発動)

(ネズミが敷き詰められたステージを前に、赤いネズミを持つ希)

希「ネズミのお引越し大作戦」

(一面小麦畑の、広々としたステージへネズミ集団を移すことに成功)

長良「これで、攻略できたのかな」

(長良に向かって)

希「超能力、上達したね」

長良「そうかな。何も変わってないように思うけど。」

希「ううん。随分変わった。長良を見てると、もうすぐ帰れる気がするよ。」

長良「そんな、大げさだよ。」

長良「でもさ、あき先生が言ってただろ。ほら、僕たちはもう・・・」

希「あんなの、気にしなくていいよ。」

長良「んん」

希「前に病院の先生が言ってたんだけど、おっぱいのでっかい女の言うことは絶対信用するなって。それは、栄養がおっぱいに・・・」

長良「も、もういいよ。大丈夫だから。」

希「あー、赤くなった」

(朝風、長良と希を見て不満げな表情)

(小麦畑で安らかに眠るねずみたち)

瑞穂「ねえ、これ、この世界のご褒美かな」

マウス「チュウチュウチュウ」

(瑞穂の靴紐がほどける)

希「はて」

長良「ほどけてる」

希「これは」

(希のセーターの裾がほどける)

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***

 

この5話冒頭の一連のシーケンスは、相当に示唆的である。

「黄金が絶対」の世界を「黄金が絶対じゃない」世界に作り替えることが世界「攻略」の鍵である。

しかし、そのために「悪者」を「潰」すという方法は取れない。生命の存立基盤(=資本主義システム)ごと崩れてみんな死んでしまう。

あくまで生命の存立基盤は維持確保しつつ、黄金が絶対じゃない世界を作ること。

そのカギを握るのが赤色のネズミである、ネズミの革命者。

赤は共産主義のシンボルカラーである。

そしてその革命者によって成就した理想郷は、黄金ではなく(同じく色は黄金だが)小麦が一面に生え、敵がおらず、またねずみも黄金を追いかけずにすみ、多くの子供を安心して育てられる社会であった。

ここで意図されていることは、資本主義システムを覆すためには共産主義革命しかないが、しかしそれはたとえば暴力で資本主義システムそのものを破壊するという方法ではだめで、むしろ資本主義システムをハックした上でなされる必要がある、という示唆であろう。

資本主義システムで物質的に豊かになり、それが精神活動の基盤を設定してきたことは、資本主義システムの弊害を指摘するとしても、忘れるべきではない。

 

では、資本主義システムをハックして乗っ取るには、どうしたらよいのだろうか?

 

3 解決策①──朝風の場合──特別な何者かになること

(1)何者問題[2]

この資本主義システムの問題への対処として出てくるありうる解答が、朝風の立場である(正確には、ヴォイスとあき先生に唆された朝風の立場)。

 

それは、端的に言えば「特別な何者か」になることによって、資本主義システムを丸ごと破壊する=世界を変えることである。

 

朝風は、現実世界では地味で目立たなかった(1話のポニー発言)。

 

特別な何者かになりたかったのであり、他者からの承認を欲していた。

 

しかし、その他者は、最終的には、希という一人の女性に収斂したようである(10話の骨折ちゃんが読んだ朝風の心は、「こいつ(=骨折ちゃん)に好かれたって仕方ないんだよな」と言っている)。

 

そして、あき先生はそこに付け込み、加えて肉体的にも朝風を誘惑し、「世界を変える」手伝いをさせていた。

 

以下、朝風が「特別な何者か」になりたかったことをうかがわせる発言を拾っていく。

 

5話

あき先生「君は特別なオンリーワンだ。君は特別な存在。君にしかできない。」

 

朝風「ひどい世界だったんだ。誰も俺に優しくなかった。」

あき先生「世界を変えるか?」

 

10話

朝風「ここにはぼんやりとした不安だけがある。俺にしかできない偉大なことに取り憑かれている」

 

希「私は朝風を尊敬できない。」

朝風「神様だって認めてくれたのに。」

希「人がどうこうではない。あんた自身が決めた価値の問題だ。」

朝風「俺はあんたほど強くはなれない。だから憧れてたのかな。」

 

(2)戦争を止めるために力を使うということの意味

戦争系列の話に埋め込まれている挿話が、9話のソウとセイジの話だろう。ここでは、戦争のメカニズムと帰結が、綺麗に描かれている。ソウとセイジは、髪の毛の本数が弟が兄より一本多いことで争いを続けていた。そう、戦争は常に、第三国から見たらよく似た隣国同士で起こるのが常である。それもくだらない理由で。そして帰結もまた、一義的である。ただただ虚しいのである。敵を虐殺したとしても、ぽっかりと大きな穴だけが残される。その穴、虚しさは、時に自殺を招く。

***

戦争を止める戦争のための朝風の決断が、個々の個人の死を意図してなされたわけではない。

まして、朝風は希が好きだった。

死んでほしいと思ったことはなかった。

でも、戦争とはそういうものである。

犠牲者を選ぶことはできない。

従って、朝風には戦争を始めた直接の責任があり、そして希の死にも間接的にだが責任がある。

しかも悪いことに、朝風が戦争を殺す戦争を始めた動機が、「特別な何者かになりたい」という欲求を見透かされて、校長(ヴォイス)とあき先生に唆された結果である。

朝風は、本当は「特別な何者か」になりたかったわけではないと思う。

ただ、希に、たった一人の他者に認められたかっただけなのだ。

そのために、むしろ、他の権威が承認してくれていることを利用しようとした。

でも、希はエピキュリアンである。

自分の自然な心に従う。

他人の権威に従い武力を行使するような人間は、魅力的ではないだろう。

希もそう判断したし、嘘もつかない。

そう、問題は、他人が朝風をどう評価しているかではなく、朝風が絶対的基準をもって自分自身を評価できるか、他人に対して胸を張れるか、なのであった(第4話のモンキーリーグで野球のルールを貫き殺された審判のように)。

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そうなったときに、はじめて希から認められるのである。

朝風は、戦争を殺す決断をし、力を行使したそのあとで、そのことに気付く。

しかし、その時には、戦争を倒すことで不可避的に生じる犠牲者の一人に、希が選ばれてしまった後であった。

 

権力や見栄や地位のために、あるいは名誉や復仇のために、国家は戦争を始める。

もっと言えば、徒党の利益のために戦争を始める。

希が朝風にぶつけた、「戦争が何かもわからないくせに」という言葉は、まさに現実に戦争を実行する意思決定を行う人々すべてに向けられているのである。

戦争は、往々にして自衛戦争の名目で開始される。

戦争を武力でもって止める(戦争を殺す)ことの意味。

それを膨大な死者の数と、省察との末に封じ込めたのが、憲法9条である。

そして、その憲法9条が禁止していると解釈されてきた集団的自衛権の行使について、第二次安倍政権は、内閣法制局を人事権で懐柔し、政府解釈を変更させ合憲とした上で、平和安全法制関連法を可決成立させてしまった。

 

(3)その達成はむなしいだけなのであること

朝風は「戦争」を殺す力をも得、また神から特別であるとの承認を得た、すなわち「特別な何者か」になったわけであるが、しかし、本当に何か得たのだろうか。朝風の心は満たされたのだろうか。

 

明らかにそうではないだろう。

 

12話で長良と瑞穂を送り出す朝風は、とても寂しそうである。

 

自身が特別になり、神になり、やってきたことを振り返ったときに、結局そこには何もなかったのだった。

 

朝風「結局、俺には何も残らなかった。」

 

つまりここで示唆されていることは、まさに1話から一貫して出てきていた、現実世界の上級国民とか親ガチャとか嘆いているようだけど、異世界で超能力を手に入れても、結局お前にできることは限られているし、それは現実とほとんど変わらない、ということの示唆である。

 

現実世界で権力やお金を手に入れた人間が、必ずしも幸せかと言われるとそうとは限らない。

 

それは異世界でも同じである。

 

結局、やれることは限られている(起こりうることしか起こらない)。

 

要するに、超能力を得たところで、それは資本主義システムの問題に対する解決策にはならないのである。

 

朝風に必要だったことは、希に尊敬されることであり、そのためには、(キャップがまさに地位がないと何もできない人間だったのとは反対に)自分自身で価値を決め、それを貫けるかどうかだったのである(たとえば、弱っている鳥や猫がいたら見返りを期待せず助けてあげる、というように。それは長良が瑞穂の猫・さくらにしたことでもある)。

 

4 解決策②──二つ星の場合──アリンコ労働者はあえて夢を見ない

長良は、二つ星のいた地下労働の世界に、ずっと居続けることもできた。

 

そこは、バベルの塔を建てるはずなのに、レンガが下に向けて運ばれる不思議な世界である。

 

なぜか虫を気持ち悪い、不味いと言いながら美味しい、美味しいと言いながら食べる世界でもある(おそらくビールやストロングゼロの比喩)。

 

しかし、誰も不思議には思わない(あとでわかるが、自分を騙しているだけである)。

 

そして、労働者が下手に希望を見てしまうとよくないので、希望を「コウモリ先輩」の力で封じ込めている世界である。

 

しかし、長良は自分の意思でそこから脱出することを決意する。

 

ここでは、二つ星が言うような「アリンコ」として、偽物の希望を植え付けられたまま日々の労働をよくわからないままこなしていく生き方が否定されているのである。

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そして、もちろん、この「アリンコ」は、7話冒頭でラジタニが飼っていた、狭いケージ内に閉じ込めておくと共食いを始める「蟻」とパラレルである(なればこそ、「蟻」を逃がそうとゲージをさかさまにした長良の行動は、そのまま自身がバベルから脱出する方法になっているのである)。

 

つまり、上司に唯々諾々と従い、人生のすべてを労働に捧げてもはや余計なことは考えずに、さながら蟻のように(蜂についてではあるが、『蜂の寓話』)生きていくことも、朝風の「特別な何者かになること」と同様に、解決策として採用できないことが示唆されているのである。

 

資本主義システムに対して、唯唯諾諾と服従するのではなく、やはり抵抗はしなければならない。

 

5 解決策③──希の場合──エピキュリアニズム

(1)12話の希の行動

手がかりはどこか?

 

それは、12話で生きている希の行動である。

 

たとえば、このことについて、希が長良ではなく朝風と付き合っている(ようである)ことをもって、新海誠秒速5センチメートル』を範にとって理解する解釈もあるようである。

 

しかし、私にはこのラストは新海誠『天気の子』への返歌であるように思われてならない。

 

まずは形式面であるが、12話でこのようなやりとりがある。

 

瑞穂 ここは長良が選んだ未来でしょ。前私に、「どうせ僕たちに世界は変えられない」って言ったの覚えてる?

長良 やっぱり世界は変えられない。だけど、これは僕が選択した世界だ。

瑞穂 まあ、大丈夫だよ。あの島でのあんたが少しでも残ってるなら、大丈夫だ。

 

これは『天気の子』ラストと重なる。事件から3年ぶりに会う陽菜に、何と声をかけたらよいかわからない帆高。直前に会った、須賀から、別に世界を変えたのはお前たちではない、気にするなと言われたので、須賀の台詞をそのまま伝えたらいいのかな、とも考えていた。しかし、水没した東京に──晴れ女の力がなくなってもなお──祈っている陽菜を見つけたときにはっとして、ただ「僕たちは、大丈夫だ」と伝えるシーンを彷彿とさせるセリフである。

 

しかし、私は、単にこのようなシニフィアンの形式的な一致ゆえに、『Sonny Boy』が『天気の子』への返歌であると主張するものではない。

 

ポイントは、それまでの各話で通奏低音として描かれ続けてきた資本主義システムの問題(そのコロラリーとしての何者問題)を踏まえた、その乗り越え、つまり解答としての、希の行動にある。

 

12話で、長良は駅の天井にツバメの巣を見つける。しかし、親鳥が来る様子がない。そこで、ツバメの雛を助けようと、わざわざ踏み台になる小さな椅子を持ってきて、巣をのぞき込む。

 

するとそこに希が現れ、「君も気になってたんだ」と言い、加えて「ほかの子はダメだったけど」、と言って、両手で抱えた箱の中の燕の雛を長良に見せるシーンである。

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このシーンは、2話の希の「あの日も同じだった。あの日も鳥を見殺しにした。」という指摘を受けて、反省した上での成長である。具体的には、鳥を助けられるようになった、ひいては、無気力だったのが自分で考え決断できるようになった、といういわば長良の「成長」の例示ともとれる。

 

しかし、単に「成長」の例示であると理解するだけでは足りない。

 

このシーンにはそれにとどまらない重要な意味がある。

 

鍵は、1話2話との「ズレ」にある。それは2点ある。

 

1つは、救済対象の成長度の違いである。

 

1話2話で長良が校門で見捨てた鳥は、「大人」の鳥である。

 

対して、12話で長良が助けようとしたのはツバメの「雛」である。

 

対象の成長度が違うのである。

 

そして、もちろん、雛は、「未来」の象徴である。

 

2つ目は、長良が雛を救う前に、希が先に雛を救っていることである。

 

この差異を、どう読み解くか。

 

解釈のための補助線は、同じく鳥を助ける話である『鶴の恩返し』である。

 

同作のポイントは、なぜ「ふすまを開けてはいけないか?」にある。

 

それは、端的に言ってしまえば──題名に反してであるが──鶴は自身の行いを露骨な「恩返し」にしてはならない、したくなかったから、なのである。

 

鶴を助ける農夫は、なにも鶴からの何らかの見返りを期待して鶴を助けたわけではない。

 

大自然の中を歩いていて見つけた、罠にかかった鶴をみて素朴にかわいそうだ、助けてあげようと感じたから、助けたのである。

 

そこにおいて農夫は、人間関係における利害や打算によって、意思決定を行っているのではない。

 

自然に、そう行動したのである。

 

これは、エピクロス派の自然主義(Epicureanism。エピキュリアニズム)そのものである。

 

こと日本においては、エピクロス派の思想は、肉体的快楽主義、エロスの追求といった方面の理解に偏りがちであるが(このあたりは、あるいは丸山眞男「肉体文学から肉体政治まで」が分析する日本社会の病理の発露かもしれない)、そうではなく、むしろ精神的快楽、すなわち利害打算にまみれ、ストレスにあふれた人間社会からの解放にこそウェイトを置いていたことは、周知の事実である。

 

さて、『鶴の恩返し』に戻ると、鶴がしたかったことは、まさにこのエピキュリアニズムの高みの営みに、農夫と同様に参加したかったということなのである。

 

そのためには、鶴が(しかも自分の羽を使って)高級な織物を贈る行為について、échangeの因果連鎖を明かして、恩返しの形にしてはならない。

 

それでは、農夫が「見返りを期待して助けた」ということになってしまう、少なくとも鶴がそう解釈して行動したということになってしまう。

 

それは、農夫の素朴でそしてゆえに高貴な意思を、完全に侮辱し、毀損することになってしまう。

 

だから、鶴は「ふすまを開けてはいけません」と告げるのであり、そしてふすまをあけられてしまった以上は、農夫のところから去るしかないのである。

 

高貴なエピキュリアニズムが、いまや惨めなéchangeに落ちてしまった。そうである以上は、もうそこにはいられない。

 

『鶴の恩返し』の非常に高度で繊細なやりとりのなかで生じている特異性はここにある。

 

(そして、木下順二ヴァージョンではふすまを開けてしまう動機が商品交換経済にあることが描かれ、それはもし仮に『Sonny Boy』の制作者が参照した先が木下順二ヴァージョンである限りでは意味を持つのであるが、基本的にはこの追加は蛇足である)。

 

以上を踏まえて、『Sonny Boy』の分析に戻る。

 

長良は何か見返り、たとえば自分と付き合ってくれるとか、結婚してくれるとか、もっと低いレベルで言えば友人になってくれるとかを期待して、希を助けたわけではない。

 

そこを「恩返し」の関係にしてはならない。

 

échangeの関係にしてはならない。

 

その意味では、希が、むしろ長良的には全然面白くないが、朝風と付き合っている、という描き方は十分に納得が行く描き方である。

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少なくとも長良と付き合っているという描写が回避されていればよかったのであるが、朝風と付き合っているという描写がある方がより徹底している。

 

長良は、見返りを求めて希を助けたわけではない。

 

そして、それは7話で「世界をひっくり返し」、意志(近代的自我)を持ち決断をはじめる長良を、それまでの回で励まし続けてきた希もまた(そして瑞穂もまた)、同じだったはずなのである。

 

そして、その長良が見返りを期待せずに助けた希が、これまた見返りを期待せずにツバメの雛を助ける。

 

この連鎖。

 

見返りの期待がなくとも、目の前の者にすっと手を差し伸べられる社会。それが、おそらく希が見た、光の先にある世界、希望そのものなのである。

 

(2)補助線としてのやまびこ・こだまの挿話(8話)

 

そして、エピキュリアニズムを、特に、嘘をつかないことの重要性を念頭に作品全体を見回せば、一見浮いていたように見える8話についても、綺麗に説明がつく。

 

この話のポイントは、出会った当初はこだまに真実を告げていたやまびこが、こだまを好きになってしまったがために、こだまの顔の腫瘍について、嘘をついて「美しい」と誤魔化してしまったことにある。

 

その対極にいた「戦争」と呼ばれる影は、こだまに対し、「君はなんて醜いんだ」と平然と告げる。

 

「戦争」が説明していたように、やまびこは自分が具象化したただ優しいだけの世界からこだまとともに外に出て、不確かな未来をともに歩く覚悟を決める必要があった。

 

なぜなら、腫瘍の淵源はこのやまびこが作った世界の外部で、心が傷つくことで生じていたのであり、そうであれば世界の外に出て現実と向き合うしかなかったのである。

 

そして、こだまの腫瘍は、つまりこだまの心の傷は、やまびこをはじめとする周囲の人の嘘、そして自分が周囲の人に対してついた嘘から来ていたのである。

 

しかし、やまびこはその決断ができなかった。

 

こだまを死なせたことを反省している。

 

だから、自然体=犬になれた。

 

しかし、それには5000年かかった。

 

そういうことである。

 

(3)エピキュリアンたる希

そして、この仮説の例証として、希がエピキュリアンであることの示唆は各話にちりばめられている。

 

たとえば4話で、世界中の猿を敵に回し、自身が集団の熱狂のうちに殺されてもなお野球のルールに忠実に公平性を貫いた、片腕のない猿の話に、希が憤慨していたこと。

 

あるいは5話冒頭で希から長良に対してなされた、「大きなおっぱいを持つ女」についての警告は、希が真のエピキュリアンであるということを踏まえると、日本において変質したエピクロス派の快楽主義の肉体的側面を、ただしく精神的面から把握している希が極めて的確に批判しているという構図になる。

 

また、おなじく5話ラストの主はさながらスイミーである。これは、大きな魚(徒党)に、小さな魚(スイミーたち)が連帯して立ち向かう話でもある。

 

また、エピキュリアニズムの特徴は、自分自身に対して嘘をつかないことに求められるところ、10話で心が読める骨折ちゃんが唯一「なんの偽りもなくみんなと接してい」たと言うのは、他ならぬ希である。

 

また、12話で瑞穂が言うように、「希は自分の心に従った」のである。エピキュリアンのその心に。

 

そして、このエピキュリアニズムこそが希=「希望」なのである。

 

希は、エピキュリアニズムに従い、常に正しく、しかし無理なく振る舞っている。

 

これこそが朝風が憧れたものの正体である。

 

(4)希望の光

あなたの目の前にいる、くだらない、しょうもないただ一人の人間を助けることに意味はないかもしれない。

 

病気であったり、けがをしていたり、さらにはもう死にかけていたりすれば、なおさらそう思うかもしれない。

 

そして、人間ですらない死にかけの鳥ならばなお一層そうである。

 

そんなことよりも、特別な何者かになって、それこそ神の力を手に入れて、あるいは戦争を指揮して、多くの人を救いたい。

 

そのように華々しい活躍とは裏腹に、目の前の一人を助けるのはコスパが悪い。

 

でも、あなたが助けた目の前の一人が、ひょっとすると、助けられたことによって、世界の連鎖のなかで、多くの人を救うかもしれない。

 

2020年、2021年と続くコロナ禍で、トリアージが盛んに持ち出された。

 

2021年8月の東京の医療崩壊では、自宅療養の名のもとに放置され、そのまま亡くなった方が多数出た。

 

そして医療関係者も相当疲弊した。いや、2021年10月現在も疲弊している。

 

そのような状況下で、目の前の一人を救うことは決して無駄ではないのだと言い切る作品を作り、理念を提示すること。

 

これは、現金な話でありあまり筋が良い解釈とは言えないかもしれないが、具体的な文脈を踏まえて言えば、2021年日本の医療関係者に向けたエールに思えて他ならない。

 

(まあ、もう少し丁寧に言えば、本作が提示する抽象的な命題が、現下の日本政府のコロナ対応という具体にもあてはまる、というだけではあるのだが)。

 

そして、長良は、あの日校門で死にかけの鳥を助けなかったことを、希に言われて反省していた。

 

その結果、瑞穂の猫・さくらを「見返りなしに」助けることができた。

 

それは、さらに瑞穂からの麦わら帽子の「おごり」に繋がる。

 

この帽子は、長良がさくらを助けた「御礼」=「恩返し」という性格づけでも全くおかしくない。むしろ自然であるとさえいえる。しかし、あえて「おごり」であると性格づけることにこそ、「恩返し」にはしないという意図が窺えるのである。

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これが資本主義システムという問題への解答なのである(瑞穂もまた、本音しかしゃべらないエピキュリアンである)。

 

12話の会話。

 

瑞穂「長良はさ、なんで帰ろうと思ったの?」

長良「これは、希が見た光だから。」

 

希が見た光は、可能性であり、希望である。

 

希望がある社会である。

 

そして、それは希が死んでなお、コンパスとなって残した意思(遺志)であり、またそれは生きている長良と瑞穂を導く指針にもなっている。

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その指針とは、すごく俗っぽい言い方をすれば、小学校の標語、「一日一善」程度のことなのかもしれない。

 

しかし、そんな俗な言い方、建前すら気恥ずかしくて言えず、あるいは皆自分のことで精いっぱいで他人に思いをはせる暇などないからそんなゆとりもないのが、2021年日本ではないだろうか。

 

でも、「起こりうること」であれば「起こる」のである。

 

希が救ったのは、ツバメの雛(ひな)である。

 

すなわち、これは『天気の子』の陽菜(ひな)なのだ。

 

(『Sonny Boy』も『Sunny Boy』だとしたら、天気の子の意訳の範疇である。笑)

 

誰かに助けられた人間が、その人間に恩返しをするのではなく、また別の人間を助ける。

 

それこそが、資本主義=個人主義システムからの、そして「何者」問題からの脱出の鍵なのではないだろうか。

 

特別な何者か、たとえば神とか超能力者とか、そういうものになっても仕方がないことは11話で神に等しい力を手に入れた朝風が、「結局、俺には何も残らなかった」と、心底つらそうに述べる様子から明らかである。

 

資本主義システムの攻略ルートは「特別な何者か」になることではない。

 

もちろん唯々諾々とシステムに従属することでもない。

 

***

 

目の前で困っている人を、ただ自然に、見返りを期待しないで助けること。

 

***

 

「まだ形のない未来」[3]を、

「過去」と違い「いくらでも変えられる」「未来」[4]を、

少しでも良い方向に変えられるように「時折」起こる、

でもとてもささいな「素敵なこと」[5]を、

そして同時に資本主義システムへのささやかな抵抗を、

 

あなたも今日から、起こしてみませんか?

 

[1] これは『さらざんまい』のカッパマゾンとパラレルである。

[2]輪るピングドラム』と、その問題意識の発端の一つであるオウム真理教事件参照。

[3] 瑞穂11話。

[4] 希6話。

[5] ラジタニ11話。