冒頭から流血の嵐でギョッとする。笑
これが人を殺すということよ・・・
でもダンプのカーチェイスとか、コンビナート上での2号との戦いとか、めちゃくちゃ好きだわ。
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本作のキーワードは、もちろんスタジオカラーが強調している「継承・孤高・友情」ではない。
本作のキーワードはまずは「絶望」「仮面(あるいは「嘘」)」「他者」である。
1 絶望
まずは「絶望」について。
ショッカーの総元締めのAIは、「最大多数の最大幸福」ではなく「最も不幸で絶望した人間を救済する」ことを人類の幸福と考えている。
ここは『psycho-passサイコパス』等よりも新しい部分であって、ある意味ロールズの「無知のヴェール」と似たような話をしているのかもしれない。
政府諜報機関の竹野内豊は「絶望に打ちひしがれているのは君だけじゃない。ただ、人それぞれに絶望との向き合い方が違う。」とルリ子を死なせてしまったホンゴウに告げる。
ホンゴウの絶望はルリ子の死から生じるものである。
そして、そうであれば、ルリ子を殺したショッカーたちに「復讐」したくなるのが道理である。
仮面メカニズムが動物性を増し殺人などにためらいを無くさせるなら尚更である。
しかし、そのルートに乗ってはならないことを、本作は繰り返し強調する。
ホンゴウのトラウマになっていると推察される、人質事件の犯人について、(射殺ではなく)最後まで説得しようとした警察官の父の死。その父は、死の間際まで息子のホンゴウや家族ではなく、犯人と人質の安否を気遣っていた。
その父の意思(遺志)を、そしてルリ子の意思(遺志)を継承するホンゴウは、「復讐」ではなく「救済」のために、イチロ・ミドリカワのところに向かうのである(まぁその意味で「継承」がキーワードになるのはわかるが)。
あるいは、年内結審予定の京都アニメーション放火殺人事件の話も、ここに繋がるのかもしれない。
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2.仮面
仮面とは上っ面で腹を見せないという悪い側面もある。
しかし他方で、個人的な想い(本音)はともかく建前にとどまる側面もある。
たとえば天皇という仮面と、熊本という仮面。
この、仮面の後者の建前たる側面に注目すれば、これは「普遍」的な「正義」を貫く梃子になる。
ルリ子が拒絶したイチロが魂だけを連れ去る世界は、「嘘=仮面」のない、本音だけの世界であり、かつてルリ子自身が理想として望んだ世界だったが、そのような「嘘」がない世界は「地獄」であった。
『コードギアス』2期でシャーリーが仮面=嘘に抱く疑念とは、丁度裏腹であって、またそれはルルーシュが拒絶したシャルルとマリアンヌが目指した「嘘のない優しい世界」そのものである。
あるいは、『新世紀エヴァンゲリオン』の、ATフィールドがなくなった「人類補完」後の世界と言ってよいのかもしれない。
この「正義の味方」の「仮面=建前」があるからこそ、「個人」的理由から「復讐」にはしってはならないのである。
3.他者
「俺は他者がわからない」(ホンゴウ)
「人間の真似をして、人間を学んでいるところです」(K)
他人の心は究極のところわからない(いわゆる他我問題)。
蜘蛛オーグは自然界は弱肉強食だから人間は殺して良いと言う。
あるいは蝙蝠オーグは人が増えすぎたから有用な人間以外滅ぼすべきだと言う。
この手の優生学的思考がショッカーたちの口から語られていたのも意図的であろう。
世界にはさまざまな人=他者がおり、その価値を「有用性」とやらで測ってはならない。
そして、他者の絶対的な他者性をまずは認めること(「孤高」)、そしてそれを前提にそれでもなお寄り添うこと(「友情」)。ルリ子がホンゴウの背中の暖かさをバイクの後部座席で感じていたように。
……しかし、そう考えると、実は「孤高」「友情」はやはりキーワードといえるのかもしれない。苦笑