人文学と法学、それとアニメーション。

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現実と距離を取るために──山田尚子監督『平家物語』第一話評註

山田尚子監督がこのタイミングで監督作品を作るということについて、京都アニメーション放火事件という文脈は外せないように思う。それは、既に事件前から、京都アニメーションを去ることが決まっており、また事件前から本作『平家物語』の監督が決まっており、既に企画がそれなりに動き出していたとしても、である。

 

山田が、このタイミングで『平家物語』という歴史物をアニメーション化するのは、ひとえに悲惨な現実から距離を取りつつ、正確に現実を見るためではないのか。

 

歴史の話をするならば、山田尚子の歴史がある。それは『けいおん!』『たまこまーけっと』にはじまり『映画 聲の形』を経て『リズと青い鳥』で結実する。今回『平家物語』制作に関わっているメンバー、吉田玲子にしろ、牛尾憲輔にしろが結集していたのが『映画 聲の形』と『リズと青い鳥』であり、そして事件で犠牲になったたとえばキャラクターデザイン担当の西屋太志らはメンバーリストには載っていない。その上で、しかし、しっかりと彼等の意志は受け継がれているのではないか。たとえば、『平家物語』第一話冒頭、牛尾憲輔のくぐもった音と澄んだ響く音、さながら『聲の形』を引き継ぐように、そして「蝶」が描かれる。『映画 聲の形』では、硝子の祖母いとの葬儀のときに、硝子が寄ってきた蝶々について結絃に対して「おばあちゃん」と手話で伝えるシーンがある。これは、そのシーンの引継ぎであろう。つまり、エンドロールに名前は載らないかもしれないが、しかし、彼等彼女らが生きていた証拠は確かにここにあるのだ、引き継がれているのだ、と(もっとも、「諸行無常」であり「ひとえに風の前の塵に同じ」になるその地点、歴史の彼方での全ての忘却こそがあるいは真の救済なのかもしれないが・・・)。

 

山田にとっての楽園──paradise──は既に失われてしまった。『映画 聲の形』に続き、おそらくこれから何百何千年と語り継がれうる『リズと青い鳥』を作った各方面の一流のスタッフを集めた山田尚子チームが、完全に再結集することはもはやない。その意味で、平家の没落、ことに京都からの京都落ち──paradise lost──は、京都アニメーションという楽園を失った山田と二重写しに見える。同じ言葉を持つ主題歌を持つ『喰霊零』は、終わりから始まる。そう、少しずつのボタンの掛け違えで、諌山黄泉が親しかった仲間たちを次々と手にかけていく、その虐殺の場面から物語が始まり、過去に遡り、そして再び現在に戻り、我々は「もうこれ以上はやめてくれ」と願いながらも止むことは決してない虐殺を目の当たりにしどうにもできず、全てが終わった後に茫然自失から回復しつつぽつぽつと「どうしてこうなったんだろう」と考えはじめる。

 

「いわゆる歴史的現実という言葉にもし何らかの意味を認めるとするならば、それはこのオイディプス的現実のようなものを指すのではないかと思われる。人々が勝利と信じているものが、実はかえって敗北であるような、そういう厳しい現実がそれなのである。」(田中美知太郎『ロゴスとイデア101)

 

重盛は過去(死者)が見えるからこそ、平家の繁栄の陰で犠牲にされた者たちが見え、常に顧み反省している。要するに繊細な感性の持ち主なのである。現に「平家にあらずんば人にあらず」の時代に浮浪児・びわを気にかけ(女御ですら重盛に本気で家に置くのかと聞き返した)、びわの父を平家のかぶろ連中が殺したことを率直に詫びた。それでびわの父が生き返るわけではないし、びわが許せるわけではないが、しかし、重盛は、そうせざるをえないのである。そしてだから清盛のように「面白く」はあれない。しかし、人間としては、重盛の方に私は好感が持てる。

 

未来が見える目を持つ者は、未来の視点から鳥瞰的に現在を把握できる。過去が見える目を持つ者は、自身の、あるいは人類の過去を顧みてその反省を現在に生かすことができる。ともに「現在」の相対化を行うという点において、びわと重盛は同じ目線に立つ。

 

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「「吟味されない生活は人間の生きる生活ではない」(『弁明』38A)」(田中美知太郎『ロゴスとイデア187)

 

主人公・びわは、いうなれば幾人もの琵琶法師によって語り継がれ洗練され作成された『平家物語』物語の擬人化であり、あるいは「仮想的観察者」や「歴史そのもの」や「神」といっても差し支えないだろう。だから未来が見えるのだ。しかしそうすると、実在の人物なのに「過去(死者)」が見える重盛は──「未来」が見えるびわほどではないにしろ──人としてはあまりにも過大な負荷を負い又これから負っていくことが暗示されている。

 

なお、私にとっても極めてショックだった京都アニメーション放火事件から私なりに──山田尚子のように「歴史」によってではなく「法理論」あるいは「死刑廃止論」によってであるが──距離をとって、かかる現実をどうすべきかを考えた論稿として、次の論稿がある。

hukuroulaw.hatenablog.com