1 逃げ恥婚
先日、契約結婚を描いた『逃げるは恥だが役に立つ』の主演であった星野源と新垣結衣の両名が結婚することが報告され、日本中が湧いた。
湧いたのであるが、しかし、なんかもやもやがあった。
もちろん、芸能人同士の結婚(それどころか訃報すら)基本的には私の人生に1ミリも関係しない。
一々それで心を動かされる必要はない。
ただでさえ疲れるコロナ禍下で、より疲れる原因をわざわざ自分で持ち込むことは無いのである。
ただ、それは平常運転でもある。
その平常時のどうでもよさを超える、いわく言い難いもやもやが今回の星野源・新垣結衣両名の結婚報道からは生じたのである。
(なお、念のために言っておけば、別に私が新垣結衣の大ファンで毎日ブログを書いていたとか、星野源が親の仇のように憎いとか、そういうことはない。そういうことではないのである。)
そして、このツイートを見つけて違和感の正体がわかった。
じゃあなんすか
— Kei NAKAGAWA (@keeeeei0315) 2021年5月19日
逃げ恥はドラマじゃなくて星野源と新垣結衣がただ普通にいちゃついてただけなんすか pic.twitter.com/JPuvhWWt6q
そう、ポイントはフィクションである『逃げ恥』でフィクションの契約結婚関係を演じていた二人が、現実で結婚してしまった、という点にある。
(※もちろん我が国の民法・戸籍法は2021年現在契約結婚などという制度を設けてはいないから、契約結婚ではない。新垣結衣・星野源両名がまだ入籍していないのに結婚を発表したのは『逃げ恥』で描かれた契約結婚が日本の現行法で認められていないためで、契約結婚を認めない民法・戸籍法の規定が憲法24条、13条、14条に違反するとして違憲訴訟を近々提起するとかいう熱い展開が期待されるゆえんである。なお、同性婚については当ブログの一つ前の記事「札幌地裁令和3年3月17日判決(同性婚不承認違憲判決)についての覚書」を参照。)
フィクションがフィクションにならない、というか、フィクションをダイレクトに現実に下ろすのはこれは「神話」をベースとした「儀礼」であり、パッと見は相当粗雑な所作である。
まずはフィクション内部で文藝、美学、宗教etc.のありとあらゆる論拠をもって徹底的な批判(Critique)を繰り広げた上で決断したのでなければ、おそらく上手く行くまい(フィクションはフィクションであればこそ──現実から浮足だってればこそ上手くいくことが多々あるのである)。
とはいえ、星野源・新垣結衣両名の関係者でない私は、以上のようなCritiqueが両名や関係者の間で交わされたとも交わされてないとも断定できぬので、まあ普通この日本社会ではそのようなことがなされた期待は持てないが・・・くらいからの憶測を述べるにとどめたい。
2 王を殺さずに市民化すること
さて、かかる徹底的なCritiqueのよい例がある。
『ハイキュー!!』シーズン4エピソード7である。
日向が影山に被せるのがタオルで作った王冠(=影山の換喩)で、しかしそれは一瞬作品内フィクションで本物の王冠になり、さらにしかし背景はゴミ捨て場(=烏野高校の暗喩)という、そこで影山が(過去を)吹っ切る、というシーンである。
ここでなされていることは、王様と呼ばれ、才能があるものの(あるがゆえに)(※なお、影山の技能の高さは単に才能では片づけられない。死ぬほど努力もしている)先輩にすら食ってかかる傲慢不遜な態度となり、皆から嫌われ避けられていた影山に、みすぼらしいタオルの王冠をかぶせて「王様の誕生だ!」と小馬鹿にすることで、フィクションを梃子にして王なのに市民?から批判される状況を作出し、現に小馬鹿にすることで、王の持つ(悪い)権威や権力を解体しているのである──作品内フィクション、影山の意識作用の中で。
そして解体後に残るのは、よい権威(専門家の助言)だけである。
これぞ「演劇」というものの本領発揮という感じである(『ハイキュー!!』は演劇ではないが)。
そしてこれは、これまた当ブログの「令和元年日本のマニフェス──『天気の子』評註」で書いた、「王を処刑することなく市民化する」というルートの一つの比喩でもあるのである。