人文学と法学、それとアニメーション。

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すぱんくtheはにー「最強の世界は、忘却の果てに」感想と疑問――アニクリ4s  

すぱんくtheはにー「最強の世界は、忘却の果てに」感想と疑問――アニクリ4s

 

1 問い

 

 すぱんく氏の論稿は、

 

「『ラブライブ!サンシャイン!!』の高海千歌が西浦みかんをアピールするポスターで、《もし、仮に》スカートが透けて下着が見えていても、それを強制的に排除する義務はどこにもない。そこに描かれたキャラクターは虚構であるゆえに、そこに「そう在る」ことが全てなのだ。自発的な意志は無く、ゆえに加害される主体もいない。所詮は描かれた絵に過ぎないではないか、話はおしまいにしよう、というわけだ。」(5頁)

 

 という、高海千歌のポスターが性的であり不適切であると批判する者に対する再批判への違和感の描出とその再批判への批判(再々批判ではなく)を目指すものである。

 すぱんく氏の問いは、こうである。

 

「いかに通俗的な批判を退けるのに都合のいい物言いだとしても、上記の「所詮は…」という嘲笑は、私たちが見出してきたフィクショナル・キャラクターの、とても重要な部分を、亡きにしてしまうのではないだろうか?」(同頁)

 

2 解答

 

 同論稿における以上の問いへの解答は、さしあたり以下の部分であろう。

 

 「ここから導き出されることは、むしろ受け手の虚構に対する態度によって在/不在が決定されているに過ぎないという事実である。より正確には、言葉の上でいかに否認の身振りを繰り広げたところで、フィクショナル・キャラクターに突き動かされた感情の揺れ動きは否定しようのない現実として現れてしまっているという事実である。逆のケースで、「ラディカル」な同意主義者もまた同様であり、口上ではキャラクターの存在を尊重しているようでいて、態度としては、キャラクターの実存(じっさい同意を取りえた場合の彼女たちの思考・指向)を無化してしまっているだろう。それゆえに、ここでは言葉というよりも態度が決定的に重要となる。

 だからこそ、前章の末尾でのべた「私たちが見出してきたフィクショナル・キャラクターの、とても重要な部分を亡きにしてしまうのではないだろうか?」という疑問には次のように答えられる。そういったものに対し、「もし現実だったならという願い」を抱える私が「これは虚構だ(に過ぎない)」と宣言することに一抹の迷いや躊躇いを覚えないとすれば、その(キャラクター表現を守ろうという善意で舗装された)否認は、むしろキャラクターを現実から遠ざけてしまい、今ここにはない可能性に彩られうるはずの現実を貧しくしてしまう地獄へ通じているのだ、と。」(8-9頁)

 

 これだけでは問いへの解答としてやや抽象的であるので、さらに文章を手繰ると、

 

「私たちは虚構のキャラクターから合意を得ることができない。なぜならそれは問いかけても自発的に応えてはくれない「死体」だからだ。」(11頁)

「とはいえ、私たちはできることなら愛すべきキャラクターを「死体」だからといって好きに扱いたいわけでもない。むしろ全てが「死体」であるのだからこそ、別の(コン)テキストを描き、別様の豊かな生を与えねばならない。粗雑な、という意味で「好き」に扱うことは、キャラクターを反対に生者側のルールに固定して、一つの生に閉じ込めることにもなるだろう。」(同頁)

 

3 疑問その1/フィクションと現実の区別は可能ではないか?

 

 ここまでは、特にすぱんく氏の従来からのフィクション観(直近ではたとえば氏の『魔女見習いをさがして』の感想

https://note.com/spank888/n/nfceda38801e9

に見ることができる)、「現実とフィクションは区別できない」という主張に沿うものである。そして、フィクションが現実を駆動するパワーを持ちうることについては同意するし、そこに一縷の望みを託しているという点でも同意である。

 たしかに、すぱんく氏の言うように、現実は様々なフィクションをその部分としながら構成されており、国家、人権、貨幣、その他諸々の観念や制度はフィクショナルなものである。しかし、この現実を構成する種々の観念や制度としてのフィクションと、小説や映画や漫画やアニメといったフィクションとは、同じ「フィクション」という言葉で指示されるとしても、異なる性質を持つものである。前者のフィクションは実存するが、後者のフィクションは実存しない。

 つまり、『映像研には手を出すな!』の水崎つばめの祖母のエピソードから導かれる、「実在する動きとしての「リアル」と、それを虚構を介して現実に運用可能な概念に練り上げた「リアル」」(8頁)は、そこで明確に述べられているように、やはり2つとも「虚構」ではなく「リアル」なのであり、実存の側にあるのである。

 この意味で、「現実=実存とフィクション=非実存」は区別が可能なのであり、区別ができないわけではない。ひとくくりの「フィクション」内部を、もっと分節すべきであるように思われる。

 

4 疑問その2/高海千歌西浦みかん大使問題への枠組みの適用について――アニメキャラクターは実存できず、実存的意思を持つことはできないのではないか?そして、そのためにする受け手の感情への転換は結局存在しない実存的意思を擬制してしまい不当な結論を導いているのではないか?

 

 またさらに、問いへの解答が、具体化される段になると疑問が生じる。

 

「例えば、『ラブライブ!サンシャイン!!』の高海千歌のスカートに対して透けている(ゆえに同意が必要なのにとっていないのはよく(=望ましく)ない)との物言いをする人は、まさにみかんを愛するという原典の(コン)テキストに沿いつつ、原典にはない(しかしまさに原典のストーリーの自然な延長に位置する)「みかん大使」を勝ち取った愛すべきキャラクターに対して、「あなた(=高海千歌)も破廉恥なのは嫌いなはずでしょ」と言っていることになるわけだ。この言い分を最もよく(=最善の層で)解釈したとしても、この物言いは、大好きなアイドルが結婚を発表した瞬間に、さして興味もなかった結婚相手とともに、当該アイドルをディスり出すような厄介なファンでしかないだろう。「こんなの僕の好きな●●じゃない…」と述べ始めたとき、対象は属性に還元され、生きながらにした「死んで」しまう。

 愛すべきものが愛した対象を否定する、あるいは愛すべきものが配置された(コン)テキストへの多様な解釈を放棄してしまう…その諦めこそが、「許されざる」ことなのではないか。」(11-12頁)

 

 まず、「あなた(=高海千歌)も破廉恥なのは嫌いなはずでしょ」というポスター批判が、いかなる意味ですぱんく氏の論旨に反するのかが不明確である。

   ここまでのすぱんく氏の行論は、フィクショナルなキャラクターは「虚構」であり「意志を持てない」ことが前提であったはずなので、高海千歌が「現実に=実存的に」破廉恥なのが嫌いかどうかは確定できないはずである。そこで、受け手の解釈(感情)の問題に転換するわけであり、結局は推定的な意思の解釈の話をせざるを得なくなるわけであるが、高海千歌が「破廉恥なのが嫌い」というのは高海千歌自身の推定的意思として十分ありうるのではないだろうか。

    そうであれば、別に「あなた(=高海千歌)も破廉恥なのは嫌いなはずでしょ」という主張は、すぱんく氏の論旨からは全く問題がないように思われる。これはキャラクターの推定的意思を尊重し、配慮した解釈ではないだろうか。「最善の層で」解釈するならなおさらそうではないか。

    また、ポスターを批判している人間が、「愛すべきものが愛した対象を否定」しているわけでもないだろう。批判者は、高海千歌の西浦みかん大使就任自体に反対しているというわけではなく、公共の場所に掲出されるポスターとして不適切ではないか、ということを主張していただけである。葬儀の場にピンクのフルコーデで行きたいけれど行けないことは、確かに本人の意思に反し、あるいは本人らしさを剥奪する行為ではあろうが、現実としても通常問題にはならないはずである。

 また、「愛すべきものが配置された(コン)テキストへの多様な解釈」の「放棄」が「許されない」のは事実だが、そうであれば「あなた(=高海千歌)も破廉恥なのは嫌いなはずでしょ」という解釈も「多様な解釈」の一つとして認められるのではないか。もっとも、おそらくすぱんく氏は、「あなた(=高海千歌)も破廉恥なのは嫌いなはずでしょ」という解釈を前提とするポスター批判者が、他の解釈を許さない形で意思を推定したことを問題視していると読む余地があるが、他の解釈を許さないなどということは原理的に不可能なのであるから、解釈を絶対化している部分について否定すれば十分であり、またその部分を否定したところで残部の主張はなお残るのである。

 以上からすれば、結局、すぱんく氏によるポスター批判者への批判は、ポスター批判者の「態度」(8頁)を問題視するものであろう。つまり、普段アニメなぞに興味のないフェミニストが運動目的で雑に扱っているのが許しがたい、と。しかし、解釈の優劣又は説得性を判断するにあたり、解釈者の「態度」が果たしてどの程度意味を持つものなのか疑問である。酔っぱらった状態で読んだ解釈がぴか一で、何十年も研究を重ねてきた末に出てきた解釈がいまいちの可能性は捨てきれない。同様に、そのキャラクターを愛している者による推定的意思の解釈と嫌っている者による推定的意思の解釈と無関心な者がフェニミズム運動目的で行っている推定的意思の解釈の優劣を、その解釈者の「態度」でもって決することはできないだろう。解釈の優劣は解釈それ自体からなされるべきである。そして、「あなた(=高海千歌)も破廉恥なのは嫌いなはずでしょ」という推定的意思の解釈は、説得的な解釈のうちの一つではあろうと思われることは既に述べた。

 もちろん、これが例えば高海千歌のアニメの中でのある発言の意味の解釈となってくると、愛着があるファンの方が嫌っている者や運動目的の者よりもより説得的な解釈を(アニメ描写の分析の詳しさ等の点から)提示できる可能性はある(これは、たとえば脳死臓器移植について、友人ではなく家族の意思を尊重するのはなぜかというと、それは家族が本人の推定的意思を最もよく把握できるからである、という議論と通じるところがある)。しかし、ここでの問題は「破廉恥なのが好きか嫌いか」という一般的なレベルの問いである。よって、やはりこの問題について「態度」は決定打にはならないだろう。

 

***

 

 高海千歌の西浦みかん大使ポスター批判は、少々事例を変えて、(最近はめっきり見なくなったが)ビールのポスターで実存するグラビアアイドルが写っている場合とアニメキャラクターのグラビアアイドルが写っている場合を比較して「グラビアアイドルだって嫌がっているはずだ」/「アニメキャラクターだって嫌がっているはずだ」とフェミニストが批判する、という場合と比較して考えることが可能である。

 この場合、実存するグラビアアイドルの場合、実存的意思は切り札であり、決定的である。本人に訊けば、かかかる批判命題(「嫌がっているかどうか」)の正誤は判明する。水着グラビアアイドルが笑顔でポスターに写っているからといって、決して喜んで写っていないという場合も、喜んで写っている場合もある。

   この実存的意思は、非実存=フィクションによっては作出できない。アニメキャラクターあるいはフィクションがどれほど現実に影響を与えていようと、非実存性を超えることはできないのである。そこで推定的意思を受け手が解釈するほかなくなるわけであるが、ここで、アニメの中でこの手の問題についての思索や見解について当該キャラクターの考え方についての示唆が全くない状態で、「積極的に水着ポスターに出て私の美しい体を見せびらかしたい」から推定的同意があるという解釈と、それとも「基本的に水着姿を人前にさらしたくはない」という推定的同意があるという解釈とは、少なく見積もっても同程度しか説得力がない(現実の一般人レベルであれば普通は「基本的に水着姿を人前にさらしたくはない」と推定していいと思える一方で、アニメキャラクターのように眉目秀麗な場合はあるいは「積極的に水着ポスターに出て私の美しい体を見せびらかしたい」と考えているかもしれない)。であれば、「本人だって嫌がっているはずだ」というフェミニストの推定的意思解釈を否定はできないのではないだろうか。

 

 実存的な意思を持てないフィクショナルなキャラクターの推定的意思を解釈し、その当否を争う場合、解釈の絶対的な正誤を決める手段は原理的に存在しない。存在するのは相対的に説得的か否かだけである。実存的な意思を持つ個人であれば、その個人の決断で全てが決するのではあるが、実存的な意思を持てない以上はその手段は採用できない。

 そして、その立場からすれば、雑な態度による解釈も丁寧な態度による解釈も、結局は提示された解釈それ自体が説得的かどうか――「態度」は問題ではない――ということにならざるを得ないと思われる。フェミニストがキャラクターの推定的意思の解釈を出してくること自体の批判もできないし、ファンはフェミニストに対して自分たちの解釈の特権的地位を主張しうるわけでもないのである。

 

※2020年12月11日誤字訂正とリンクの追加をした。