人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

自由に切り貼りできるコンテクストの説得力の無さーー『Fate Grand Order 神聖円卓領域キャメロット 前編』覚書

 

 ソシャゲとして進める分には面白いのだろうけど、拡散してしまう群像劇と各サーヴァントならびに藤丸の動機の薄さ更には旅人感の全てが絡み合い致命的に物語を盛り下げている。

 またこれはFateシリーズ全般に言えるが、コンテクストから切りはなして勝手気ままな解釈を加えてキャラを造形していくならば、もはや「歴史」を扱う意味がない。

 ソシャゲ原作で言うなら、『マギアレコード』も似たような感じで、たくさんのキャラクターと短く単発のイベントが積み重なっており、ストーリーやキャラクタが拡散してしまう。ソシャゲ原作でないなら、『とある』シリーズの間延び部分の雰囲気に近い。ソシャゲのキャラクタや名場面のコレクター性に鑑みると、とにかく自転車操業で新キャラ、新場面、新シナリオを実装していく必要があるわけで、一から無名のキャラクタを考えるのは手間であることを考えると、それなりの「のれん」を持つ歴史上の人物を使うのは考える手間が省け楽だし知名度があるしで客寄せにはもってこいである。

 このソシャゲの傾向は群像劇性、キャラクターの多様性がファンの獲得ひいては商業的成功と絡む近時のアニメのあり方と同じである。

 しかし、結局のところ外見はデフォルメされ又は性別すら入れ替えて造形されるのであるから、利用されるのはその歴史上の人物の「名前」と、その名前と結びつけられた「エピソード」や「性格」でしかない。その「エピソード」や「性格」ですら、「史実」かどうかではなく「面白さ」が優先される。「歴史上の人物」の「名前」を含む「断片」ないし「俗説」を「解釈の無限の可能性」をテコに「物語」を量産して「商品」として流通させていく様は、フィクショナルなキャラクターの「尊厳」の問題と、現実の「実存性」「唯一性」を無視ないし軽視する問題がリンクして現前しているように思われる。

 

 ちなみに『刀剣乱舞』シリーズは『FGO』ないし『Fate』シリーズよりはやや斜めである。歴史上の人物も出てくるが基本刀剣=物が主人公であり、創作の自由度が増す(反面、考えるべき事項が増える)。