人文学と法学、それとアニメーション。

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限界まで研ぎ澄ますということ――木村草太『平等なき平等条項論』評註

本稿は、木村草太『平等なき平等条項論 equal protection条項と憲法14条1項』(東京大学出版会、2008年)の短い書評である。

 

1 本文(3-212頁)について

 日本国憲法14条1項の解釈をアメリ判例法理を手懸りに提示する力作で、内容・結論ともに非常に説得的である。

 

アメリカ法の示唆①:構成的立法目的概念を採った場合,〈立法目的の正当性〉の審査は不要である

アメリカ法の示唆②:〈立法目的への適合性〉要請は,目的論的解釈類似の機能を持つ.

アメリカ法の示唆③:〈付随的弊害の相当性〉要請は,不文の権利保障と同等の機能を果たす.

アメリカ法の示唆④:〈区別の合理性〉=〈立法目的への適合性〉要請では対処できない〈差別〉の問題領域が存在する.」(176)

 

 これを梃子にして、木村は日本国憲法14条1項の解釈論としては、まず①〈立法目的の適合性〉審査についても不要であるとする(もっとも、②〈立法目的への適合性〉審査の前提として解釈を施す必要自体はあるし、Loving判決[1]のように何らの正当性ある目的を構成できない場合もある)。

私自身は、国籍法違憲判決(最大判平成20年6月4日民集62巻6号1367頁)が4(1)で言う「立法府に与えられた上記のような裁量権を考慮しても、なおそのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合、又はその具体的な区別と上記の立法目的との間に合理的関連性が認められない場合には、当該区別は、合理的な理由のない差別として、同項に違反するものと解されることになる」について、特に前半の「そのような区別をすることの立法目的に合理的な根拠が認められない場合」というのが宍戸応用展開の記述[2]も相俟ってよくわかっていなかったのであるが、要するに平等原則違反が争われている条文について普段行政民商民訴刑刑訴etc.でやっているような目的解釈、趣旨解釈をしろと言うだけのことだったということが判明した。笑 

ちなみに、この立法目的の解釈による構成という問題意識は、木村草太『憲法の急所』(羽鳥書店、2011年、初版[3])に引き継がれ、しかも「漠然性ゆえに無効の法理」や「過度の広汎性ゆえに無効の法理」の再構成(160—169頁)という形で先鋭化する[4]。この先鋭化自体、既に本書「結」(211-2頁)で明示されているように、タイトルの伏線回収になる「平等なき平等条項」の構築を目指すという木村の目標に連なる活動であり、〈平等〉という曖昧な概念を〈立法目的への適合性〉要請、〈差別抑制〉要請、〈付随的弊害の相当性〉などの明確な概念に変換していく作業として具体的に提示されたこの関心は、急所において、「不明確な法文により差別されない権利(憲法31条)」(163)や「立法請求権(抽象的権利Lv2)」(47)、「一般法適用請求権(抽象的権利Lv3)」(48)といった整理につらなる、のであろう。[5]

続いて、③〈付随的弊害の相当性〉審査については、付随的弊害を生ずる先の個々の憲法上の権利条項(21条1項や22条1項)で処理すればよいとし、14条1項の適用範囲からは外す。

 以上から残るのは②〈立法目的への適合性〉審査と④〈差別〉禁止要請であり、これをそれぞれ、

 

日本国憲法14条1項

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 

の「すべて国民は、法の下に平等であって、」に②を、「人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」に④を振り分けて解釈論が完了する(14条1項前段後段分離論)。非常に説得的で構築密度の高い解釈である。

 

2 「あとがき」

 

「筆者は,学部三年生の際、長谷部恭男教授の「大野正男判事の憲法理論」と題された演習に参加し,非嫡出子の法定相続分に関する最大決平成7年7月5日民集49巻7号1789頁の報告を担当した.報告は不十分なものに終わり,大野正男判事ら五名の裁判官による反対意見の真価を見出すこともできなかった.本書の問題意識が形成されたのは,その報告の際である.」(273)

 

概ね学者はみな既存の学問を既存のルートで学ぶうちに「躓いた」ところがある人間である。

その意味で、石川健治「つまづきのもと憲法」法教357号5頁冒頭解説は、これも奇遇にも学部3年であった私の「つまづき」となり、(別にそれで学術論文を書いた、というわけではないものの)私が憲法学含む法学全般に取り組むにあたり導火線となり続けたことに感謝している。(この「つまづきのもと憲法」の意味不明具合が当時学部長をやっていた憲法の教授に、教授と言う類型の人間にはじめて(!)アポを取って会いに行く(逆に言うと3年次までそんなことをしていなかった)きっかけになったのである)。

 

※ちなみに、何の気なしに、今この「つまづきのもと憲法」を見直してみたところ、なんとまさかまさかの木村草太『平等なき平等条項論』が引用されていた。確かに、記事の内容はアメリカ平等法理の話であったには違いないが、これは魂消た。生まれたての院生は最初に読んだ翻訳者を親と思ってついていく、ではないが、やはり(暗黙裡な作用とはいえ)ファーストインプレッションは大事、なのかもしれない(なお、私が知識のひけらかしを超えて、司法試験憲法の答案が書けるようになったのは急所【初版】とブログの力戦憲法のおかげであるのだが、この話はまた別の機会に譲る。なお、司法試験の答案=知性の完全性への諦めと自分の惨めさと向き合う作業のまだ軽いヤツなので、この程度のところで恥を捨てられないならば自分の惨めさと向き合うとても重いヤツである学術論文等は書けないのである)。

当時は1、2年次に遊び惚けていたせいで、憲法あるいは法学全般について何ら理解しておらず、『平等なき平等条項論』はおろか木村草太の名前さらには上の芦部信喜高橋和之松井茂記の名前すらわからなかった。笑笑笑 思えば遠くに来たものである……。

 

「14条1項論を例にとろう。現在の解釈論は、従来の「合理的区別」論の低迷から浮上するために、戦後のアメリ憲法判例を導入する形で、構築されたものだ。そこでは、人種差別など「疑わしき区別」と選挙権など「基本的権利」が問題となっている場合に、審査基準を“浮上”させる手法が採られていたからだ。導入に際しては、「疑わしき区別」についての厳格審査基準を、1項後段の列挙事項の解釈に振り分けるなどのアレンジが施され、彼国の判例動向が変化して中間審査基準が生まれれば、それを摂取する努力も行われた。そうした学説の努力は、実に40年余りをかけて、じわじわと判例にも影響を与えてきた。ここまでは初学者もフォローすべきだろう。

ところが、90年代以降の代表的な憲法教科書は、如上の「基本的権利」を、さらに二重の基準(+規制目的二分論)で、強引に仕分けしようと試みた(芦部信喜[高橋和之補訂]『憲法〔第4版〕』〔岩波書店、2007年〕127頁以下)。元来それは、選挙権や居住移転の自由、裁判所へのアクセス権など、憲法上の根拠が薄い権利の受皿になってきた論点であり、そこで表現の自由や営業の自由が争われていたわけでは、なかったにもかかわらず(松井茂記アメリ憲法入門〔第6版〕』〔有斐閣、2008年〕302頁以下)。これは、仮象問題をつくって、実益のない細分類で無用の混乱を招いただけだ。「恣意的」との評言もある(木村草太『平等なき平等条項論』〔東京大学出版会、2008年〕228頁以下)。」(石川健治「つまづきのもと憲法」法教357号5頁)

 

「助手時代の指導教員の高橋和之先生は,研究論文は須く読み手に負担を感じさせないものであるべきであり,煮詰められた明確な内容を持ち,適切な分量・分かり易い文体で書かれたものでなけらばならない,と教えて下さった.」(273)

 

 ちょうど今日、書物復刊と他者のわからなさ、とでもいうべきツイートを目にしたのであるが、わからなければわからない、読解が難しければ難しいほどよい、というわけでは必ずしもない(読解が難しいこと自体が意味を持つ場合があることは、とりわけ他者理解が甘く、ともすれば他者を自分あるいは全体に取り込んで理解した気になることの多いこの国での意義は否定しないが)。特に内容が難解になりうる学術論文をそれ自体適切な短さで読みやすくまとめるのは並大抵の努力と知性ではできない。本書の各章は概ね20頁以内で構成されており、また10頁以下の章も多く、まとまりを意識して読みやすい。また、各章ごとに問題提起と結論が短いスパンできちんとまとめており、これも読者の理解に資する。これほどシャープな文章にはそうそうお目にかかれない(ちなみに「What's the Real,What's the Problem?――村木数鷹「マキァヴェッリの歴史叙述」国家学会雑誌132巻9・10号(2019)103頁以下についての覚書」https://hukuroulaw.hatenablog.com/entry/2020/04/19/223716で紹介した村木論文はこのそうそうお目にかかれない文章である)。急所において、あるいはまたブログの力戦憲法において、▲△を用いた、将棋の対戦形式でもって頭を働かせ、双方の主張を研ぎ澄ます思考方式(まさしくクリティーク)が、効いているのかもしれない。高橋の指摘を十全に踏まえ、実践できている文章になっていると思われる。

 

[1] Loving v. Virginia,388U.S.1.

[2] 宍戸常寿『憲法 解釈論の応用と展開 第2版』(日本評論社、2011年)111‐4頁。同書の難読箇所の一つである(今はスラスラ読める。)

[3] なお、本文からはわき道にそれるが、必ずしも版があたらしい方がよい、とは限らない。初版への批判による省察や自身で読んでの誤植の訂正、内容の不明確部分の反省、さらには単純に新判例、新法のアップデートなどが施されることにより、新版の方がよいのは言うまでもないことのように感じられるが、特に演習書の場合、批判に対応する分量増加や説明の詳述化が読者のレベルを凌駕し、結局身につかないまま挫折、放置するおそれがないわけでなはない。(私自身にとり)木村の急所の第2版がそうだ、というわけではないが、憲法が苦手な人間にとっては、分量が少しでも増えたことはひょっとすると購入を躊躇わせる一因になったやもしれない。なお、この分量増加による挫折問題が顕著に表れているのが古江頼隆『事例演習 刑事訴訟法』(有斐閣、2011年)であることは言うまでもない。どのレベルのユーザーを射程に置くかにもよるのはもちろんではあるが…。

[4] もっとも、急所165頁の「過度に広汎な法文は、処罰対象以外の第三者の表現を萎縮させるため、法文自体を無効とし萎縮効果を除去すべきだと主張されてきました。」「しかし、こうした理由づけには疑問が残ります。萎縮効果を除去したいのであれば、法文を限定解釈するか、一部違憲(規制すると違憲になる行為への適用を基礎づける部分の違憲無効)にすれば良く、法文全体を無効にする必要はないはずです。」については、毛利透『表現の自由 その公共性ともろさについて』(岩波書店、2008年)読んだ今となっては、疑問なしとしない。

[5] なお、伊藤滋夫編=巽智彦=御幸聖樹=佃克彦著『憲法と要件事実』(日本評論社、2020年)は、あるいはこの延長(ドイツ民法学がかつてそうしたような、本権たる請求権リスト化の動き?)として眺めても面白いのではないだろうか。なお、安念潤司憲法訴訟論とは何だったか,これから何であり得るか」論ジュリ1号132頁以下の問題提起は現在でもなおこの問題を考えるにあたり必読である。