人文学と法学、それとアニメーション。

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どん底の2023年日本にあらまほしきEpicureanism!──ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』評註

'Perfect days', la película de Wim Wenders que triunfó en Cannes ...

 

ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』は、2023年東京の無口で独身高齢の清掃作業員・ヒラヤマ(役所広司)の日々の暮らしをドキュメンタリー風に撮影した作品である。

 

描写の細やかさ、あるは些細な日常性(everyday communism)は、『リズと青い鳥』や『花とアリス殺人事件』にも通じる。

 

描写の細やかさについては、とくに最後に長映しで映るヒラヤマの豊かな表情や、戦闘でのたるんだ肉体の描写など、これは役所広司だからこそできたものだろうか?

 

些細な日常性は、タカシとのやりとりや、駅構内の小さなカウンター居酒屋、コインランドリー、神社の昼のランチ、ホームレスの田中泯らとの出会い。

 

そして、その細かさこそがまたEpicurianismの主題系に通じることも、このブログの読者であれば既に十分承知していることであろう。

 

hukuroulaw.hatenablog.com

 

***

 

さて、本作についてそんなにたくさんの解説は必要ない。

 

なぜなら、ヒラヤマの2週間の生活をつぶさに、朝起きてから寝るまでを、そしてたまの休みにコインランドリーに行き洗濯し、小料理屋で過ごす日々をひたすら撮影しているだけだからである。これらすべてを書くとすれば、それは2時間の映画の事実の列挙になってしまう。

 

本作の主題(というか訴えかけている価値観)はEpicreanismであろう。

 

日本版のキャッチコピーの「こんなふうに生きていけたなら」は、インターネット・SNSの発達で情報が並列化し、加えて一億総貧困化でもはや時間すら売り物にせざるを得ないタイパ・コスパなる語が流行り、情報商材ビジネスやブラックバイトが流行る嫌な2023年日本の世相において、このヒラヤマのような生き方、「虚栄を捨てて自然に生きる」(木庭顕)ことがそれなりに人間らしい生活だと訴えかけているようである。

 

本作がEpicreanismを主題に据えていると言い切れるのには、2つのポイントがある。

 

一つは、ヒラヤマがなけなしの金で育てている盆栽である。

(しかも、これは神社など野生の植物をもらってくるもののようである。)

 

二つは、ヒラヤマの妹はさながら仕事のできるセレブ然とした女社長?あるいは政治家?であり、高級車に秘書まで帯同している。このような生き方の対極がEpicureanimである。

 

ラスト、日本以外の国の人間に向けてではあろうが、どう考えてもくどい「木漏れ日」の説明が入る。

 

これは言うまでもなくラスト付近の友山(三浦友和)との影の濃さの観察実験からの影踏みであり、そのような人間関係の在り方はまさに「自分ができあいのやつを胸にたくわえているんじゃなくって、石と鉄と触れて火花の出るように、相手次第で摩擦の具合がうまくゆけば、当事者二人の間に起こるべき現象である」(夏目漱石『それから』37-8頁)、という夏目漱石の捉え方に繋がる。

 

馴れ合いや支配従属ではない(世間で言う「コミュ力」は、こちらを指すことが多い)、適切な時に適切なコミュニケーションができる人間は、日ごろから自然を観察し、本を読み、いろいろと思索にふける、そういう人間である。

 

これこそがEpicureanismの理想とする人間関係である。

 

林芙美子『放浪記』の雰囲気もある。

 

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最後に、これはフィクションである。

 

現実の2023年東京の清掃作業員が、現にこういう理想的な状況に置かれているという話ではない。

 

そのことは、汚物が一切描かれないことで明らかであろうが。

空気の支配──成田洋一監督『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』覚書

福原遥自体比較的好きな女優であるし、あの特攻出撃前夜のツルさんの食堂での明るさと表裏の緊張感や、松坂慶子の「おめでとうございます」、千代ちゃんと石丸の関係、「日本は負ける」に怒鳴り散らす警察官の威圧的雰囲気、空襲の怖さ、ラストの博物館のシーンで崩れ落ちる百合etc...は、非常によく描けていたと思う。

 

その意味では画が強いよい映画だったとも言えるかもしれない。

 

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長く生きられない人と恋に落ちる物語は、その関係が短期間に凝縮される結果、濃密なものとなり、2時間枠の映画という本質的に積み上げが足りなくなりがちなメディウムでも、観客に強力なインパクトと説得力を与えうる。

 

映画に限らずその手の作品を恣意的にいくつか選べば、『世界の中心で愛を叫ぶ』や『君の膵臓を食べたい』、そして『四月は君の嘘』を挙げることができよう。

 

さて、本作も、上記作品は男女のカップルの、女性の側が死ぬという点を男性の側が死ぬというように変えれば、全く同じプロットとなる。

 

ゆえに、作劇上の都合で神風特攻隊の佐久間彰は死ななければならないのである。

 

本作では、物語内在的な必然性が積み上がる様は描かれていない。

 

そのことは物語を弛緩させ、百合と彰の関係に疑義を生じさせうる。

 

そして、この必然性のなさは、本来であれば原作者の、あるいは映画監督の責任に帰せられる事柄である。

 

結論としてそのことに変わりはないのであるが、そう簡単な話ではない。

 

以下、その遠回りの論証を行う。

 

原作者と映画監督が本作の不出来につき責任を負うべきなのは、ひとえに、特攻隊を恋愛ものの舞台装置として選んだ点である。

 

物語の積み上げのなさ、必然性のなさは、その選択の帰結にすぎないため、物語の積み上げのなさ、必然性のなさには責任はない。

 

すなわち、現実の特攻隊(あるいは戦前の日本軍そのもの)に必然性がない、不合理なものであったがゆえに、「なぜ目の前の愛する者を置いて不合理な理由で死ななければならないのか?」という問いにまともな回答は出せず、不合理な選択で死を選び、恋愛関係を断つことを選んだ人間として佐久間彰は描かれざるをえなくなるのである。哲学を専攻する早稲田大学のインテリなのに!

 

そして、なんかいい雰囲気にするために、「百合、生きてくれ」の手紙が登場する。

 

謎のヒロイズムに浸る前に、板倉のように泥臭くでも生きるべきだっただろう。

 

このようなヒロイズムを再演させないためにも、「特攻隊は犬死であった」というカウンター言説が出てくるのは、いささか品はないとは思うが、充分理解できるところではある。

 

なんとなくの雰囲気で愛する者との生ではなく死を選んだ彰は、なんとなくの雰囲気で戦争を始め、遂行し、そして負けた日本軍・政府首脳にも通じる。

 

山本七平はこれを「空気」の支配と呼んだ。

 

この空気は、本作にも瀰漫し、特に福山雅治の主題歌に至りその猖獗を極めることとなる。

見守るという教育──『窓際のトットちゃん』覚書

公開初日(12月8日)に観てきました〜。

 

原作は黒柳徹子の自伝的小説。

 

宮崎駿君たちはどう生きるか』同様、あの世代が2023年の今、自伝的作品を出すと、それは必然的に太平洋戦争に触れざるを得ない結果、岸田文雄自民党政権が進める軍拡を批判する潜在力を持つこととなる。単なる時代描写が、軍拡批判の意味を帯びる現状は、もちろん良くないことなのだけど。他方、宮崎駿黒柳徹子もそれなりに富裕な社会階層だったことがわかり、むしろそうではない我々に必要なのは当時のプロレタリアたちの自伝では?と思うのだが、社会階層が上でないとまとまった記録や思弁すら残せないか…とも。

 

小林校長先生、トットちゃんの話を終わるまで数時間聴くし、何かやるときはみんな一緒にって言うし、トットちゃんが汲み取り式トイレの糞尿を汲み出し汲み出し財布探しをやってるのを止めるでもなく眺めててただ「ちゃんと戻しとけよ」で済ますし、夜電車が来ところを見たいといえば宿泊の許可をするし、ほんと理想の教育者という感じである。

 

カリキュラムもなく、生徒に好きなことを好きな順番でやらせる。

 

タイパ・コスパに縛られた現代の子供たちはかわいそうだと思った(実は私の小学校6年生のときには宿題が「30分勉強」というもので、何でも30分勉強してきたら評価するという仕組みだった。たまたま漫画日本の歴史を読んでたので、難しい漢字の練習もかねてひたすら人名を自由帳に書き抜いて持っていったらAAの評価。以後、歴史上の人物の名前を無限に書き出すうちに、日本史が死ぬほど得意になった。当時の担任には感謝している。

 

「多様性」の実現というキャッチフレーズが最近メディアや行政に安っぽく躍るが、そもそも「多様性」とは、相互尊重のもとに、あるがままを放置しておくことである。小林先生のトモエ学園には、それがあった。型に嵌める教育では、トットちゃんは窒息してしまう。トットちゃんが最初に通っていた学校の管理体制が、そのまま後半の戦時ファシズム体制の社会全体にスライドする。軍だけでなく市民自らが贅沢は敵だとやりはじめる。そして軍人が安全保護を名目に子供が空腹を嘆くのをも非難する。2023年は1930年代日本にかなり近づいているのではないか。

 

また、小林先生が大石先生が低身長症の高橋くんを生物は進化論の時間に軽く揶揄う冗談を生徒のいないところで厳しく見咎めてたのもよかった。パワハラにならないよう人目のないところで、しかし言うべきことははっきり言う。

 

贅沢は敵だ!華美な服装は慎め!からの、劇中現実から色彩が徐々に失われていくことと、自由が失われ、多様性が失われ、トモエ学園のような個性的な生徒たちが穀潰しだと否定されていくことは、パラレルである。LGBTQ🏳️‍🌈のレインボーフラッグひとつとっても、色彩と自由(圧迫)の関係は明確である。アニミズムのトーテムで「動物」が世界分節に使われるのと同じ自然由来の使いやすさが、色彩にはあるのかもしれない。そして色彩で言えば、戦時体制になり、しかも夜で雨というシーンで、泰明ちゃんのステップから街に彩りが溢れていくフィクションは、もちろん劇中現実ではないが、トットちゃんと泰明ちゃんにはしっかり現実なのである。

 

トモエ学園のお散歩シーンは当時の東京の田舎の日々をのんびりとしかし色彩豊かに描き好きだった。

 

 

 

切れない過去、日本という病──『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』評註

すぐれたフィクション作品は、その時代背景──文脈(ケンブリッジ学派?)を超えて、普遍的射程を持ちうる。

 

『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は、2023年日本の現状、どん詰まりという文脈がなければ描かれなかったであろうが、他方でその射程は非常に長く、普遍性を勝ち得ている。

 

基礎テイストに『ひぐらしのなく頃に』はある感じがする。

あとはやはり(やはり?)京極夏彦狂骨の夢』かな。

まぁ2023年といえば京極夏彦17年ぶりの百鬼夜行シリーズ『鵼の碑』が出たわけですが。

 

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労働者にヒロポン打って「24時間働けますか?」と、戦後復興の犠牲にするのは、旧日本軍の若者兵士を無謀な攻撃に送り出し犠牲にした日本社会がそのままスライドしただけであり、また、ヒロポン精製過程でもまたぞろ弱者の命を削って行くという地獄。ベッドに縛られ痩せ衰えたゆうれい族の血を輸血され半人半霊になった無数の人々はさながらナチスドイツによりアウシュヴィッツガリガリに痩せ衰えたユダヤ人を彷彿とさせる。儲かるのは製薬会社や銀行、富裕層。しかもヒロポン業者の金持ち一族が、単に拝金主義・人間の尊厳や人権敵視なだけじゃなく、政治的なナショナリストでもある。「あの戦前の素晴らしき大日本帝国」を回顧し今度は勝つための犠牲なんだから喜べときたものだ。今(2023年)の岸田自民がやってる大軍拡と金持ち優遇政策と瓜二つである。そして、これこそがまさに今の岸田自民党・日本政府が「朝鮮人虐殺の文書などない」と言い出すわけである。由緒ただしき栄光ある日本の素晴らしい歴史に自身を一体化させた誇大妄想の幼児的万能感に浸る政治家たちにとって、過去は現在と繋がっており、現在の権威やプライドを傷つける不祥事は歴史にあってはならないのだ。

 

本作品は、日本の戦前と戦後が明確に断絶させられず、日本人の加害責任が明確に意識されないまま、(朝鮮戦争の追い風で)のっぺりと戦後復興の波に乗ってしまったことが、経済的に衰退する日本社会において再びデシフィットとして露出しつつある2023年の現状の根本的問題であることを剔抉し、「おためごかし」でない方法で子供に伝える作品である。その未来を夢見、しかし年寄りの欲に殺され狂骨と化した少年を描くことで。あるいは年寄りに陵辱された少女を描くことで。しかし、沙代も時弥も助けられない。唯一の希望は鬼太郎に託された…。今の子供たちには、こんな未来、こんな日本しか用意できず、本当に申し訳ないと思う。本作品は未だ戦前の省察がなされないままに戦後社会にスライドした日本社会への鋭い社会批評を行う悲劇作品である。その意味で、同じく鋭く2019年日本を切り出しつつもラストで切り返した喜劇作品である新海誠『天気の子』と対をなす名作である。

 

『天気の子』の持つ殆ど古典的とも言える普遍的な射程については、以下の記事を参照。

hukuroulaw.hatenablog.com

 

「ゆうれい族」というのは、在日コリアンの隠喩で、哭倉村自体が「日本人」の隠喩なのかもしれない。そうであれば、あの龍賀当主の、「血」(と「土」も!)を搾取(=徴用)されて死んだゆうれい族の怨念=狂骨を、そのゆうれい族にぶつけるシステムは南北境界線のことであろう。いやはや。戦前は植民地朝鮮を、戦後は朝鮮戦争を利用して大国化した日本。

 

他方、日本国内を見れば、一般日本人もまた何のことはない、戦前は日本軍兵士、戦後は企業戦士としてこきつかわれ切り捨てられてきた。そして儲けは政治家と企業に。「この国はまだ戦争の途中なのだよ。経済戦争の。」戦前から2023年にまで続く強固なシステム。

 

龍賀の当主が井戸の底で使っていた、幽霊族の怨念を人間ないし龍賀が吸収し反転させて同士討ちさせる手法も、今の岸田自民党が芳野・連合会長と国民民主を上手く使って今のところ唯一政権交代の芽がある立憲民主と共産を仲違いさせている手法がチラつく。あるいは、秋葉原無差別殺傷京アニ放火か大阪クリニック放火か。弱者同士を歪み合わせ、殺し合わさせ、連帯を防ぎ、権力者富裕者はぬくぬくと過ごす。あと、やられそうになったら子供のフリを始めるところも含め(スラップ訴訟や弱者男性論、『正欲』でも出てきたが、性的少数者に対して多数者が「うちらに気ぃつかわせとるんは、ハラスメントやないんで?」まで)。

 

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しかし、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズ観に来たらまさかジャニー喜多川が出てくるとは思わないじゃない

 

あるいは、『ゲゲゲの鬼太郎』シリーズのふりして『Fate Stay Night / Heven’s Feel』をお出しするのはダメでしょ

 

人間生まれたときからすーべて遊びだわ!──北野武『首』覚書

とにかく派手に首が飛ぶし、きちんと斬首を描くし、首を取られた後の死体・傷口や、斬られた後の首も映す。

 

生のむなしさ、あっけなさーーニヒリズムが主題かしらね…

 

家康の無限影武者編含め主人公格の関係当事者ほとんどが散る暴力と欺瞞裏切りの応酬。そこにつけ加えられるは男同士の愛(あるいはクィアベイティングか?)。男女逆転版『大奥』があったが、ああいうどろどろした感じである。織田信長(加瀬亮)、荒木村重(遠藤憲一)、明智光秀(西島秀俊)の三角肉体関係はなるほど(?)という感じ。

 

加瀬信長も、西島光秀も芝居は良かった!

 

まぁ依然、『アウトレイジ』的ホモソ空間で全てが回ってる感はある。

 

あと、ヤスケの手のひら足の裏そしてお歯黒はダウンタウン浜田のブラックウォッシュがあった上でよくやるわとは思ったが、信長に「この黄色い猿が!」と言って本能寺で信長の首飛ばしたヤスケは北野武なりのこれまでの諸差別の反省の表明か????

 

清水宗治切腹シーンの羽柴秀長(大森南朋)の「まだやってんのか」や羽柴秀吉の「早く死ねよ」はめちゃくちゃ不謹慎で笑うけど、実際あんな感じよね、多分。笑 まぁ大森南朋は劇中通して秀吉、というかみんなを小馬鹿にしてる感じが始終最高だが。笑

 

あと、光源坊のとこの狐面二人は良かった。笑

 

しかし北野武『首』、初日(11月23日)初回に見たのだけどあまり入りが良くなかった(『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』は同じ箱だったがほぼ満員(まぁ親子連れが多かったが、親子連れが観るような内容じゃなかった。笑)、『首』は3割くらいだった…)

1枚目は何か?──『ドミノ』覚書

ヒプノティック──超高度な洗脳術により、他人を操ることができる能力。

 

最初の世界は、主人公がその力で構築した非現実世界であり、刑事たる自分の娘を、機関から守るために誘拐したのは、なんと自分自身であったのだった。

 

ヒプノティックによる世界構築が多層的に重なり合う中で、何が現実で何が仮想なのかがわからなくなる。

 

プロジェクト『ドミノ』は、プロジェクト名ではなく、人の名前、娘の名前ドミニク・アローからつけられたものだった。

 

最強の超能力を持つ娘が、ドミノの一枚目であり、偽物の妻は本物の妻だった(ただし主人公が洗脳していた!)。敵を欺くにはまず味方、それから観客から。

あるいは令和のソフォクレスか、溝口か────『正欲』評註

映画『正欲』公式サイト

 

岸善幸は令和日本のソフォクレス、あるいは溝口健二か。

 

いやはや恐れ入った。

 

こういう映画を見るために、生きているみたいなところがある。

 

今年の邦画だと、淺雄望『ミューズは溺れない』。あるいは是枝裕和『怪物』。

 

アニメだと宮崎駿君たちはどう生きるか』。

 

洋画だと『対峙』、『パリタクシー』、『バビロン』。

 

以下、評註。

 

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無論、物語の対抗軸は「正常」な検察官・寺井啓喜vs「異常」性愛者・桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也(、矢田部陽平)の大きな構図で描かれる。

 

もっとも、もう少しだけ言うと、そしてそれが望ましいことかは分からないが、単なる多数派・マジョリティvs少数派・マイノリティの構図ではなく、マイノリティのさらに先にいるマイノリティに焦点を当てて、その生きづらさを描いている点が先進的ということになろうか。もっとも、留保をつけたように、そして実際映画の中のゲイパレードのニュースのコメントで言及があるように、「我が国は遅れているので」──現に令和5年7月11日のトランスジェンダー経産省トイレ訴訟と令和5年10月25日の性同一性障害特例法3条1項4号違憲判決も含め、トランスヘイトのバックラッシュ吹き荒れる状況であり──そういえば寺井啓喜は「同性愛者は見るのも気持ち悪い」と発言し更迭された岸田首相の秘書官であった荒井勝喜と似たような字組である──単なるマイノリティの問題より先に進むことが可能なのかどうかという問題があるからである。ただ、周縁化されるマイノリティの問題としては、まだそれなりに数を集め運動化できるLGBTQの方が、それすら難しい「水フェチ」よりはマシかもしれないが、同時に、最も困難な立場に置かれた個人──最後の一人──を救うことができるなら、他のマイノリティもまた救われるはずなのであって、そしてマイノリティがマジョリティから不当な扱いを受けている以上は、よりマイノリティである者の置かれた問題状況はまたわかるはずである。

 

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何が人間世界を根源的に基礎づけているか。

 

その問いに、物理学、生物学、宗教学、哲学、人類学、社会学・・・etcは答えようと、そして世界を自分たちの学問分野の領野に納めようと、近代の学問界はこぞって争った。

 

そのような中で、ジークムント・フロイトは、「性的欲求」に的を絞り、精神分析を始めた。

 

フロイトに言わせれば、人間を根本的に支配しているのは「性欲」である。

 

であれば、「性」の規範を巡る社会ないし国家における闘争は、苛烈を極めることとなり、そしてそれは敗北した少数派・マイノリティを、時に命を奪う形で追いつめることが、予想されるし、現にそうなってきたし、幾分マシになったとはいえ今もまだ多分にそうである。そして、社会的逸脱に効果的に利用されてきたのが、刑罰である(ex.ソドミー処罰)のもまた周知のことである。

 

「ミスター・アプトンは最近、人生を変える大きな決断を下し、女性として生きるための性別移行を始めることになりました。クリスマス休暇が明けたとき、彼女はミス・メドゥスとして仕事に戻ります。

 ランカシャー州アクリントンにある、聖メアリ・マグダレン学校の保護者向けニュースレターに記載されたこの短い告知文は、簡単に読み飛ばされるほどのものだった。この一文は、2012年のクリスマス休暇の始まりにあたって告知された、それ以外の多くのスタッフの身分変更についての情報のただなかに何気なく埋もれていた。ある1年生の担任の先生は、フルタイム勤務へと勤務時間を増やすことになった。別の先生は、勤務時間を減らすことにした。ある先生は、スペインに新しい仕事を得たので学校を去ることになった。

 そして、ある先生は女性になり始めた。学校長であるカレン・ハードマンが後に認めたことによると、ミス・メドゥスの性別移行は学校のコミュニティの「興味関心を掻き立てるに違いない」と、彼女は考えていた。ひょっとすると、この告知文がスタッフたちについての相対的に当たり障りのない身分変更のリストのなかに置かれていたのは、行きすぎた反応をできるだけ抑えたいという願いがあってのことだったかもしれない。あるいは、スタッフの一員による性別移行がセンセーショナルに取り上げられることを避けるためだったかもしれない。そうだったとすれば、それは無駄な願いに終わった。

 学校のニュースレターが発行されてほんの数日のうちに、ルーシー・メドゥスという、彼女が性別移行後にそう呼ばれたいと願っていた名前は、以前の彼女の男性的な名前とともに国中にばら撒かれた。あっという間に、ジャーナリストたちが彼女の家を取り囲んだ。

 3ヶ月のうちに、ルーシー・メドゥスは自宅の階段下で亡くなっているのが見つかった。32歳。彼女は自ら命を絶った。」

(ショーン・フェイ〔高井ゆと里訳〕『トランスジェンダー問題』(明石書店、2022年)17-18頁)

 

あるいは、近時『イミテーション・ゲーム』で描かれたように、天才数学者アラン・チューリングは、男娼を買った罪で有罪、投獄を避けるため化学的去勢(女性ホルモンの投与)を選択し、(本当のところは不明であるが)精神のバランスを崩して自殺した、とされる。

 

***

 

検察官・寺井啓喜が、妻子の訴えかけや、検察事務官・越川秀巳が持ってきた「ありえない」新聞記事(水道蛇口窃盗犯・藤原博の事件記事)、佐々木佳道や諸橋大也の供述から水フェチの「他者」たる佐々木佳道や諸橋大也を理解できるか、ともすればそれは「信仰」であり「飛躍」なのであるが、しかし実はそれこそが、「正常人」寺井が、自身の妻子を理解できるかの鍵なのである。これは、元棋士橋本崇載をはじめとするいわゆる実子誘拐被害・離婚後共同親権賛成派の人々と全く同じ視点に、寺井が立っていることを示している。

 

司法試験に合格し検察官である自分の「正しさ」が、妻子(女と10歳のガキ)の「正しさ」と違う、つまり「間違っている」、そんなことがありえようはずがない。それを受け入れることは、まさにアイデンティティクライシスに陥る。この考え方、おそらく「常識」あるいは「社会通念」であろうが、これを突破できるかに全ての掛け金がかかっているのである。そして、それは寺井と同じ思考をしている、おそらく大部分の一般日本人についてもまた、そうなのである。

 

「孤立ないし切断が出来ないからこそ連帯が生まれない。」(木庭顕『現代日本法へのカタバシス』(羽鳥書房、2011年)254頁)

 

「連れ合いの李ジョンファと息子の遠藤愛明にも感謝を捧げます。ジョンファは、14年にわたる結婚生活において、第一の「隣人」はパートナーであり、家族なのだということを教えてくれました。それは同時に、「隣人」を引き受ける責任の厳しさと素晴らしさを知ることでもあったのです。」(遠藤比呂通『人権という幻』(勁草書房、2011年)254頁)

 

ラスト、検察官・寺井に夏月が頼もうとした伝言は、「とてもふつうのこと」であり、「いなくならないから」であった。

 

かたや、普通人の代表だったはずの寺井の下からは、既に妻子が「いなくなっている」。

 

どこで「普通」と「異常」が逆転したのか。

 

違う。そもそも問いがおかしい。

 

ここで夏月が言う「ふつう」とは、「普遍」の意味なのである。ただ局所的にありふれていて、真に普遍たりうるだけの批判吟味を経ていない「ふつう」とは異なるのである。

 

そうした「普遍」的な「信頼関係」の高みにのぼれたのは、人を信じることができたのは、「普通」人の寺井、あるいは佳道と夏月の同級生たちや教師や・・・ではなく、「異常」者佳道と夏月だった。

 

ネオプトレモスは、二度とフィロクテーテースのそばを離れないであろう。

 

疑似セックスの際に、夏月におおいかぶさった佳道と抱き合う形になり、「もう一人だったときにはもどれない」と独り言ちた夏月。引っ越したばかりの際の「恋愛感情はない。」という発言は全く互いの本心であろうが、これを「恋」と呼ぶかはともかく、間違いなく(エピキュリアニズムがそう呼ぶところの)「高度な信頼関係」に既に至っている。そして、これはあのおさんの反転、「死ねんようになった」(溝口健二近松物語』)を直ちに想起させる。そうであるから、(もちろん冤罪であるが)児童ポルノ製造罪の共同正犯での逮捕、あるいは起訴さらには万が一有罪判決に至っても、夏月は佳道から離れないだろう。不義密通死罪よりははるかにましであるし、というよりこの程度のことは(もちろん苦難の道ではあろうが、しかし)これまでの道程に比べれば、遥かに楽な道程ですらある。寺井が極めて重大な衝撃を受けた演出(思いドアが大きくゆっくりと閉まる)のは演出としてはもはやミスのたぐいである。それほどまでに、夏月にとって「いなくならないから。」は自然に(これもまたエピキュリアニズム!)あっさり出てくる言葉である。

 

独りぼっちでいたい人なんていない。

 

であれば。

 

最後の一人を見つけた(あるいは、しまった)ならば。

 

それは隣人として、そばにいるべきなのである。

 

***

 

2023年11月、旧ジャニーズ事務所におけるジャニー喜多川による未成年男児への性加害が本格的に責任追及されるようになり久しいが(そして児童買春等を追及する検察官が稲垣吾郎なのもまた何の因縁か…という感じであるが)、それに言及するまでもなく、矢田部の未成年男児への売春、さらにはレイプはいくら「性癖」であろうが、許されない。それはしかし、そのような妄想を内心に抱いたからではなく、行為に移した、すなわち『自由論』の著者・J.S.ミルが言うように、まさに他害行為を行ったがゆえである。

 

だからこそ真っ先に、夏月はそこを確認した(「誰かを傷つけましたか?」)し、佳道も全く同じであった。

 

そこで線引きはできるのである。

 

***

 

しかし、「人間社会で擬態して生きていくために結婚しませんか?」は笑ったし、佳道の家に植木鉢投げ込んでガラス割るのも、もっといえば学生時代の藤原博門下として受けた「啓示」から水道破壊のくだりも全部好きだった。笑

 

『SSSS.DYNAZENON』の暦センパイが現在の人妻・かつての同級生と「このままこのお金持ってどこか行かない?」と言っていたあの時のエピソードのような、ね。

 

あるいは『花とアリス殺人事件』のユダ探しの一日徹夜の大体験とか。笑

 

***

 

しかし残念ながらキャッチフレーズとは異なり、私は観る前と変わらないんだよな……つらい…………

 

「水フェチ」ないし「異常性欲」者ではないけれど、社会通念ないし人の心がよくわからないので、どうにか判例・裁判例を読み込んで社会通念を獲得している、そもそも佳道や夏月側の、擬態してる人間だからしょうがないね‥‥‥‥…

 

検察は定型発達マッチョイズム組織なんだとあらためて(あらためて)理解できましたが、はい。