人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

空気の支配──成田洋一監督『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』覚書

福原遥自体比較的好きな女優であるし、あの特攻出撃前夜のツルさんの食堂での明るさと表裏の緊張感や、松坂慶子の「おめでとうございます」、千代ちゃんと石丸の関係、「日本は負ける」に怒鳴り散らす警察官の威圧的雰囲気、空襲の怖さ、ラストの博物館のシーンで崩れ落ちる百合etc...は、非常によく描けていたと思う。

 

その意味では画が強いよい映画だったとも言えるかもしれない。

 

***

 

長く生きられない人と恋に落ちる物語は、その関係が短期間に凝縮される結果、濃密なものとなり、2時間枠の映画という本質的に積み上げが足りなくなりがちなメディウムでも、観客に強力なインパクトと説得力を与えうる。

 

映画に限らずその手の作品を恣意的にいくつか選べば、『世界の中心で愛を叫ぶ』や『君の膵臓を食べたい』、そして『四月は君の嘘』を挙げることができよう。

 

さて、本作も、上記作品は男女のカップルの、女性の側が死ぬという点を男性の側が死ぬというように変えれば、全く同じプロットとなる。

 

ゆえに、作劇上の都合で神風特攻隊の佐久間彰は死ななければならないのである。

 

本作では、物語内在的な必然性が積み上がる様は描かれていない。

 

そのことは物語を弛緩させ、百合と彰の関係に疑義を生じさせうる。

 

そして、この必然性のなさは、本来であれば原作者の、あるいは映画監督の責任に帰せられる事柄である。

 

結論としてそのことに変わりはないのであるが、そう簡単な話ではない。

 

以下、その遠回りの論証を行う。

 

原作者と映画監督が本作の不出来につき責任を負うべきなのは、ひとえに、特攻隊を恋愛ものの舞台装置として選んだ点である。

 

物語の積み上げのなさ、必然性のなさは、その選択の帰結にすぎないため、物語の積み上げのなさ、必然性のなさには責任はない。

 

すなわち、現実の特攻隊(あるいは戦前の日本軍そのもの)に必然性がない、不合理なものであったがゆえに、「なぜ目の前の愛する者を置いて不合理な理由で死ななければならないのか?」という問いにまともな回答は出せず、不合理な選択で死を選び、恋愛関係を断つことを選んだ人間として佐久間彰は描かれざるをえなくなるのである。哲学を専攻する早稲田大学のインテリなのに!

 

そして、なんかいい雰囲気にするために、「百合、生きてくれ」の手紙が登場する。

 

謎のヒロイズムに浸る前に、板倉のように泥臭くでも生きるべきだっただろう。

 

このようなヒロイズムを再演させないためにも、「特攻隊は犬死であった」というカウンター言説が出てくるのは、いささか品はないとは思うが、充分理解できるところではある。

 

なんとなくの雰囲気で愛する者との生ではなく死を選んだ彰は、なんとなくの雰囲気で戦争を始め、遂行し、そして負けた日本軍・政府首脳にも通じる。

 

山本七平はこれを「空気」の支配と呼んだ。

 

この空気は、本作にも瀰漫し、特に福山雅治の主題歌に至りその猖獗を極めることとなる。