人文学と法学、それとアニメーション。

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あるいは令和のソフォクレスか、溝口か────『正欲』評註

映画『正欲』公式サイト

 

岸善幸は令和日本のソフォクレス、あるいは溝口健二か。

 

いやはや恐れ入った。

 

こういう映画を見るために、生きているみたいなところがある。

 

今年の邦画だと、淺雄望『ミューズは溺れない』。あるいは是枝裕和『怪物』。

 

アニメだと宮崎駿君たちはどう生きるか』。

 

洋画だと『対峙』、『パリタクシー』、『バビロン』。

 

以下、評註。

 

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無論、物語の対抗軸は「正常」な検察官・寺井啓喜vs「異常」性愛者・桐生夏月、佐々木佳道、諸橋大也(、矢田部陽平)の大きな構図で描かれる。

 

もっとも、もう少しだけ言うと、そしてそれが望ましいことかは分からないが、単なる多数派・マジョリティvs少数派・マイノリティの構図ではなく、マイノリティのさらに先にいるマイノリティに焦点を当てて、その生きづらさを描いている点が先進的ということになろうか。もっとも、留保をつけたように、そして実際映画の中のゲイパレードのニュースのコメントで言及があるように、「我が国は遅れているので」──現に令和5年7月11日のトランスジェンダー経産省トイレ訴訟と令和5年10月25日の性同一性障害特例法3条1項4号違憲判決も含め、トランスヘイトのバックラッシュ吹き荒れる状況であり──そういえば寺井啓喜は「同性愛者は見るのも気持ち悪い」と発言し更迭された岸田首相の秘書官であった荒井勝喜と似たような字組である──単なるマイノリティの問題より先に進むことが可能なのかどうかという問題があるからである。ただ、周縁化されるマイノリティの問題としては、まだそれなりに数を集め運動化できるLGBTQの方が、それすら難しい「水フェチ」よりはマシかもしれないが、同時に、最も困難な立場に置かれた個人──最後の一人──を救うことができるなら、他のマイノリティもまた救われるはずなのであって、そしてマイノリティがマジョリティから不当な扱いを受けている以上は、よりマイノリティである者の置かれた問題状況はまたわかるはずである。

 

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何が人間世界を根源的に基礎づけているか。

 

その問いに、物理学、生物学、宗教学、哲学、人類学、社会学・・・etcは答えようと、そして世界を自分たちの学問分野の領野に納めようと、近代の学問界はこぞって争った。

 

そのような中で、ジークムント・フロイトは、「性的欲求」に的を絞り、精神分析を始めた。

 

フロイトに言わせれば、人間を根本的に支配しているのは「性欲」である。

 

であれば、「性」の規範を巡る社会ないし国家における闘争は、苛烈を極めることとなり、そしてそれは敗北した少数派・マイノリティを、時に命を奪う形で追いつめることが、予想されるし、現にそうなってきたし、幾分マシになったとはいえ今もまだ多分にそうである。そして、社会的逸脱に効果的に利用されてきたのが、刑罰である(ex.ソドミー処罰)のもまた周知のことである。

 

「ミスター・アプトンは最近、人生を変える大きな決断を下し、女性として生きるための性別移行を始めることになりました。クリスマス休暇が明けたとき、彼女はミス・メドゥスとして仕事に戻ります。

 ランカシャー州アクリントンにある、聖メアリ・マグダレン学校の保護者向けニュースレターに記載されたこの短い告知文は、簡単に読み飛ばされるほどのものだった。この一文は、2012年のクリスマス休暇の始まりにあたって告知された、それ以外の多くのスタッフの身分変更についての情報のただなかに何気なく埋もれていた。ある1年生の担任の先生は、フルタイム勤務へと勤務時間を増やすことになった。別の先生は、勤務時間を減らすことにした。ある先生は、スペインに新しい仕事を得たので学校を去ることになった。

 そして、ある先生は女性になり始めた。学校長であるカレン・ハードマンが後に認めたことによると、ミス・メドゥスの性別移行は学校のコミュニティの「興味関心を掻き立てるに違いない」と、彼女は考えていた。ひょっとすると、この告知文がスタッフたちについての相対的に当たり障りのない身分変更のリストのなかに置かれていたのは、行きすぎた反応をできるだけ抑えたいという願いがあってのことだったかもしれない。あるいは、スタッフの一員による性別移行がセンセーショナルに取り上げられることを避けるためだったかもしれない。そうだったとすれば、それは無駄な願いに終わった。

 学校のニュースレターが発行されてほんの数日のうちに、ルーシー・メドゥスという、彼女が性別移行後にそう呼ばれたいと願っていた名前は、以前の彼女の男性的な名前とともに国中にばら撒かれた。あっという間に、ジャーナリストたちが彼女の家を取り囲んだ。

 3ヶ月のうちに、ルーシー・メドゥスは自宅の階段下で亡くなっているのが見つかった。32歳。彼女は自ら命を絶った。」

(ショーン・フェイ〔高井ゆと里訳〕『トランスジェンダー問題』(明石書店、2022年)17-18頁)

 

あるいは、近時『イミテーション・ゲーム』で描かれたように、天才数学者アラン・チューリングは、男娼を買った罪で有罪、投獄を避けるため化学的去勢(女性ホルモンの投与)を選択し、(本当のところは不明であるが)精神のバランスを崩して自殺した、とされる。

 

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検察官・寺井啓喜が、妻子の訴えかけや、検察事務官・越川秀巳が持ってきた「ありえない」新聞記事(水道蛇口窃盗犯・藤原博の事件記事)、佐々木佳道や諸橋大也の供述から水フェチの「他者」たる佐々木佳道や諸橋大也を理解できるか、ともすればそれは「信仰」であり「飛躍」なのであるが、しかし実はそれこそが、「正常人」寺井が、自身の妻子を理解できるかの鍵なのである。これは、元棋士橋本崇載をはじめとするいわゆる実子誘拐被害・離婚後共同親権賛成派の人々と全く同じ視点に、寺井が立っていることを示している。

 

司法試験に合格し検察官である自分の「正しさ」が、妻子(女と10歳のガキ)の「正しさ」と違う、つまり「間違っている」、そんなことがありえようはずがない。それを受け入れることは、まさにアイデンティティクライシスに陥る。この考え方、おそらく「常識」あるいは「社会通念」であろうが、これを突破できるかに全ての掛け金がかかっているのである。そして、それは寺井と同じ思考をしている、おそらく大部分の一般日本人についてもまた、そうなのである。

 

「孤立ないし切断が出来ないからこそ連帯が生まれない。」(木庭顕『現代日本法へのカタバシス』(羽鳥書房、2011年)254頁)

 

「連れ合いの李ジョンファと息子の遠藤愛明にも感謝を捧げます。ジョンファは、14年にわたる結婚生活において、第一の「隣人」はパートナーであり、家族なのだということを教えてくれました。それは同時に、「隣人」を引き受ける責任の厳しさと素晴らしさを知ることでもあったのです。」(遠藤比呂通『人権という幻』(勁草書房、2011年)254頁)

 

ラスト、検察官・寺井に夏月が頼もうとした伝言は、「とてもふつうのこと」であり、「いなくならないから」であった。

 

かたや、普通人の代表だったはずの寺井の下からは、既に妻子が「いなくなっている」。

 

どこで「普通」と「異常」が逆転したのか。

 

違う。そもそも問いがおかしい。

 

ここで夏月が言う「ふつう」とは、「普遍」の意味なのである。ただ局所的にありふれていて、真に普遍たりうるだけの批判吟味を経ていない「ふつう」とは異なるのである。

 

そうした「普遍」的な「信頼関係」の高みにのぼれたのは、人を信じることができたのは、「普通」人の寺井、あるいは佳道と夏月の同級生たちや教師や・・・ではなく、「異常」者佳道と夏月だった。

 

ネオプトレモスは、二度とフィロクテーテースのそばを離れないであろう。

 

疑似セックスの際に、夏月におおいかぶさった佳道と抱き合う形になり、「もう一人だったときにはもどれない」と独り言ちた夏月。引っ越したばかりの際の「恋愛感情はない。」という発言は全く互いの本心であろうが、これを「恋」と呼ぶかはともかく、間違いなく(エピキュリアニズムがそう呼ぶところの)「高度な信頼関係」に既に至っている。そして、これはあのおさんの反転、「死ねんようになった」(溝口健二近松物語』)を直ちに想起させる。そうであるから、(もちろん冤罪であるが)児童ポルノ製造罪の共同正犯での逮捕、あるいは起訴さらには万が一有罪判決に至っても、夏月は佳道から離れないだろう。不義密通死罪よりははるかにましであるし、というよりこの程度のことは(もちろん苦難の道ではあろうが、しかし)これまでの道程に比べれば、遥かに楽な道程ですらある。寺井が極めて重大な衝撃を受けた演出(思いドアが大きくゆっくりと閉まる)のは演出としてはもはやミスのたぐいである。それほどまでに、夏月にとって「いなくならないから。」は自然に(これもまたエピキュリアニズム!)あっさり出てくる言葉である。

 

独りぼっちでいたい人なんていない。

 

であれば。

 

最後の一人を見つけた(あるいは、しまった)ならば。

 

それは隣人として、そばにいるべきなのである。

 

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2023年11月、旧ジャニーズ事務所におけるジャニー喜多川による未成年男児への性加害が本格的に責任追及されるようになり久しいが(そして児童買春等を追及する検察官が稲垣吾郎なのもまた何の因縁か…という感じであるが)、それに言及するまでもなく、矢田部の未成年男児への売春、さらにはレイプはいくら「性癖」であろうが、許されない。それはしかし、そのような妄想を内心に抱いたからではなく、行為に移した、すなわち『自由論』の著者・J.S.ミルが言うように、まさに他害行為を行ったがゆえである。

 

だからこそ真っ先に、夏月はそこを確認した(「誰かを傷つけましたか?」)し、佳道も全く同じであった。

 

そこで線引きはできるのである。

 

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しかし、「人間社会で擬態して生きていくために結婚しませんか?」は笑ったし、佳道の家に植木鉢投げ込んでガラス割るのも、もっといえば学生時代の藤原博門下として受けた「啓示」から水道破壊のくだりも全部好きだった。笑

 

『SSSS.DYNAZENON』の暦センパイが現在の人妻・かつての同級生と「このままこのお金持ってどこか行かない?」と言っていたあの時のエピソードのような、ね。

 

あるいは『花とアリス殺人事件』のユダ探しの一日徹夜の大体験とか。笑

 

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しかし残念ながらキャッチフレーズとは異なり、私は観る前と変わらないんだよな……つらい…………

 

「水フェチ」ないし「異常性欲」者ではないけれど、社会通念ないし人の心がよくわからないので、どうにか判例・裁判例を読み込んで社会通念を獲得している、そもそも佳道や夏月側の、擬態してる人間だからしょうがないね‥‥‥‥…

 

検察は定型発達マッチョイズム組織なんだとあらためて(あらためて)理解できましたが、はい。