人文学と法学、それとアニメーション。

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縦と横、あるいは住居と階層──『コンクリート・ユートピア』評註

占有原理から持家制度=所有原理に象徴される貧富の格差を批判する作品で、特に災害時にこそその支配意識が顕在化する様を精緻に描き出す(文学は社会構造をなす亀裂を極大化しえ、それにより人々の意識を明瞭にし、可能な限りよい選択をなさしめる)。最愛の妻を守りたいがために暴力を行使する住民代表に追従し、選択を間違い続けてしまう夫は、結局マンション外部の襲撃者から受けた傷が原因で死ぬが、その死はこれまで色彩を失っていた世界で唯一カラフルなステンドグラスの下で生じる。その死はさながら人類の悲劇を背負っているようでもある。これらはその直前の妻の瞳のアップと落涙を含め、キリスト=マリアの奇跡を連想させるが、果たしてそれは、「縦のままのマンション」を死守しようとした皇居マンション(皇居マンション!笑)の住人たちとは異なり、「真横に倒れたマンション」(つまり縦の支配従属ではなく横の水平連帯)で暮らす人々の園に導く。水平連帯だから「天井が高い」!。「タダで居てもいいんですか?」と問う妻に「生きている限り、当たり前に居ていい」と返す。加えて「あそこのマンションの連中は、化け物だって噂だ。人を食べるとか?」と訊かれて、「いいえ、普通の人たちです。」と返すやりとりが、くどいようだがまたよかった。そう、皇居マンションの住人は、どれだけ飢えても、人だけは食べなかった。ただ、住人以外を武装して締め出し、規律違反に制裁を与え、だんだんカルト化していっただけであり、その根っこには、一国一城の主=有権者意識と、皇居マンションに逃げ込んできた部外者はかつて皇居マンションを見下していた隣のマンションの住人たちであったことの不信とリベンジが背景にあったわけだが、それらは全て『普通の人々』(クリストファー・ブラウニング)がなしたことなのである。

 

災害パニックジャンルに見せかけた、おそらくは現在の韓国の厳しい経済格差と居住環境による階層化(たとえばマンションの格とマンション内部での持家か借家かなどの微細な分節ラインが住民たちの意識にあることが示されている。ウァレリウス・プーブリコラの範(木庭顕『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』226-228頁)や、山本理顕『権力の空間/空間の権力』も手がかりになる)に対する極めて鋭い批評になっているのだが、202411日の能登半島地震でまさに現実に多数の死傷者や長引くであろう避難生活があるだけに、15日現在の日本ではちょっと薦めづらい作品ではある。