人文学と法学、それとアニメーション。

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降りて傷ついたその先に──尾石達也『傷物語 こよみヴァンプ』評註

1 近代的個人主体から降りること

 

権力あるいは近代的個人主体から「降りること」は、そのあとの苦難苦渋を考えると、潔く「自殺」した方が楽かもしれない。

 

ちょうど『君たちはどう生きるか』の地下の「我を学ぶ者は死す」の引用元である、林房雄の短編に出てくる南京政府の元大臣のように。

 

武士の切腹、一億玉砕、そしてそれをすることこそが、「責任」の取り方なのだ、そういったヒロイズムにあこがれてしまう気持ちは、よくわかる。

 

繰り返し現れる日章旗のモチーフは、(太陽の直喩あるいは吸血鬼の換喩を超えて)まさにこのことを指摘しているのであろう(もっとも、旧三部作の総集編『傷物語 こよみヴァンプ』のOPで出てきた仏像、日本刀、そしてOP直後の桜…と観ていると、単に雰囲気でやってるわけでは?と疑問になり、そうであれば実は日章旗についてもあまり深い意味合いはなかった、それこそ太陽の直喩くらいの意味しかないと解釈することにはそれなりの説得力がある。)

 

すなわち、戦前の(あるいは戦後も継続して、というべきか。『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』が鋭く突いた。)日本の軍国主義体制における反省は、それこそ敗戦時の阿南惟幾陸軍大臣切腹や、東条英機元首相の拳銃自殺未遂、近衛文麿元首相の服毒自殺などに代表される、「責任」の取り方であった。

 

しかし、本作は、観客である我々一人ひとりに、そういったヒロイズムを捨てて、無様に生きていくことを要請している。

 

阿良々木暦が口にする、(直接にはドラマツルギーの死についてであるが、潜在的には全人類に対して)キスショットを助けた「責任」として「僕が死ぬべきだ」という意識、あるいは、キスショットの、阿良々木暦に殺されることで阿良々木暦を人間に戻すという「責任」を果たそうとしていたことを踏まえれば、吸血鬼ないしその眷属(つまりは吸血鬼であるが)には、「死んで責任を果たす」という意識を持たされている。

 

そうであれば、キスショットは日本人ではなく、外国人であることが明示され、しかもその外見や吸血鬼モチーフを踏まえれば、おそらくは西洋人であることが明らかであるにも関わらず、吸血鬼に仮託されているのは、その外見が提示するものとは異なって、戦前の日本の、そして戦後も継続する日本人の精神構造である。

 

もっとも、そのような「死んで責任を取る」ことは、実際は「責任」を取ることとは真逆の、「責任からの逃避」ないしは「無責任」(丸山真男)にすぎないことは、羽川翼が体育倉庫で阿良々木暦に鋭く説くとおりなのである。

 

「そうあれないなら死んだ方がマシである」完璧な近代的主体であることを諦めて、それでも隣にいてくれる人と、みじめで弱く醜くであれ、連帯して生きていくこと。

 

『映画 聲の形』で、自分の存在が周囲の迷惑になるからと死を選んだ西宮硝子の代わりに、しかしマンションから落ちたのは石田将也である。「自殺」は「責任」を採ることではなく「無責任」に投げ出すことの、「解決」ではなく「解決の放棄」であることが示唆されていた。

 

そういったヒーローから「降りたあと」の「連帯」構築のスタートラインが、本作のラストの、キスショットの隣に無言で座る阿良々木暦の、少し逡巡したのちの、微笑みかけなのである。

 

(近時、ヒーローの弱さ、降りる話を描く作品には枚挙にいとまがないが、さしあたり堀越耕平『ぼくのヒーローアカデミア』をあげておく。)

 

2 他者/共存

本作は、それぞれの仕方で孤独な個人(阿良々木暦、キスショット、羽川翼)が、受け容れ難い他者と、ただ「お前に生きていて欲しい」というその一点のみから、どうにか共存していく、という話である。

 

自己にとって他者とは、本質的にリスクなのである(ウルリヒ・ベック『危険社会』)。

 

わかりあえることもあるが、わかりあえないことの方が多い(しかし、だからといって悲観する必要はない。決定的にすれ違ったままでも、友達ではあれることを描いたのが2024年現在でも以前アニメーションの一つの到達点である山田尚子監督『リズと青い鳥』であった。)

 

特に、食欲や性欲を含む極めて原初的な欲求についてはなおさらそうである。

 

他方でまた、自己は一人では生きていけないのは自明であるから、他者はリスクであると同時に必要な存在でもある。

 

近代個人主義においては、依存関係の遮断が目指されるが、それは方法論的個人主義の認識が影響しているからにすぎず、現実には、個人は社会からおよそ自由ではないように、ホーリズムの視点を欠いたアトミズムは、現実を見ていないことを帰結する(小林正弥『政治的恩顧主義論』)。

 

他者から完全に自立・自律した近代的個人主体なるものは、現実には存在せず、常に誰かにはなにがしかの依存をしている。

 

そもそも、『傷物語』の話自体が、「熱血にして冷血にして鉄血の」吸血鬼・キスショットが、ヴァンパイア・ハンター3人に追いつめられ、弱々しい人間・阿良々木暦に助けてもらうところから始まる物語であった。

 

完璧で最強に「見える」キスショットが、この物語を駆動する一番最初には、他者を必要とした事実こそが、自立・自律した近代的個人主体なるものは、幻想にすぎないことを雄弁に物語っている。

 

人は、自己一人では生きていけない、根源的に他者に依存している存在である事実はまた、「人間強度が下がる」から友達を作らなかった阿良々木暦が、羽川翼のおせっかいによって羽川翼と友人となり、そして現にエピソード戦で勝利できたのは、羽川翼の(結果的に命を賭けることとなる)助言ゆえである。

 

しかし、やはりそれは同時に「人間強度が下がる」ことでもあり、現にエピソード戦では羽川翼に瀕死の重傷(というか阿良々木暦に吸血鬼の力がなければ死んでいた)を負わせたエピソードを殺すほんの一歩手前まで阿良々木暦を狂わせたし(忍野メメの介入がなければあっさり殺していただろう)、ドラマツルギー戦では(「高校生」の阿良々木暦羽川翼に対するところの)「大人」であるドラマツルギー羽川翼を拉致され、負けたと宣言しなければ殺すと脅迫されることとなる。

 

「弱点」は言い方を変えれば「リスク」である。

 

このように、「他者」は、「自己」にとって、「必要不可欠」な存在でありながら「リスク」であるという両義性を、本質的に持つ。

 

そうであるから、ラストにおける「みんなが不幸になる選択」は、実はこの「他者」が存在すること自体は認める、つまりジェノサイド等を否定し、結果として多様である現代社会のありかたそのものなのであり、「キスショット」及びキスショットの眷属である「阿良々木暦」が、人を食べるかもしれないリスク、羽川翼を代表とする「普通の人」が負うべきリスクは、我々が常日頃負っているリスクをフィクショナルに極大化したものにすぎず、本質は変わっていない。

 

むしろ、キスショットが、権力を持つ自立・自律した近代的個人主体の地位から「降りる」くらいなら、愛する人のための「死」を選びたい、という、権力と結びついたヒロイズム幻想からいかに「降りられる」かこそが、真の意味で問われていた事柄である。

 

権力や地位の外装に彩られた、しかし本当は弱い自分自身と向き合うには勇気がいる。

 

もっとも、キスショットは既に、自分が阿良々木暦を人間に戻すために、阿良々木暦に殺されるという選択を、覚悟を決めるまえに阿良々木暦と話していた自身の昔話、最初の眷属・死屍累生死郎(もっとも、この名前は『続・終物語』になるまで出てこないが)との話をし、そしてまた生死郎が自殺する前に、あるいは自殺したときに、自分が死ねなかった後悔をずっとかかえてきたこと、そしてそれはこれまで400年間眷属を作らなかったことからも明らかであること、翻ってキスショットは、確かに人間を、ドラマツルギーを殺害し食べたけれども、まだ人間の心を、さらに言えばその心の中でも他者に対しての繊細さを依然保持し続けていることが示される。

 

権力から「降りる」、しかしその後を生きていける前提条件を十分に満たしていた(だからこそ、これは結果論であるとも言えるが、キスショット=忍野忍の「降りた」後の阿良々木暦を中心とした様々な出来事との関わり合いが生まれ、元カレどころかいわば元夫・死屍累生死郎との決着もつけることができた)。

 

だから、阿良々木暦は、権力者としての、あるいは自立・自律した近代的個人主体としてのキスショットは「助けない」。

 

しかし、「助けない」ことによって、その奥の、本来の、繊細で他者をおもんぱかることができそして400年間ずっと一人の人間に対しての後悔を抱え続けたキスショットを「助けて」いる。

 

3 傷

 

傷物語』における「傷」とは、阿良々木暦の首筋に残るキスショットの二本の八重歯による噛み跡である。

 

それは、阿良々木暦がキスショットを、その意に反して殺さず、ただ権力の座から引きずり降ろしたにとどまること、そしてキスショットはかつての人間、かつての自己の眷属の血がなければ生きていかれず、依存していることを意味する。

 

この「傷」は、したがって、自立・自律した近代的個人主体が、その地位から降りて、弱さと向き合うための刻印である。

 

それは隠すべきものでも、治癒するものでもない。

 

また、その傷は決して弱者に貼られたスティグマではない。

 

本当は弱い個人が、権力から降りて、真に水平な連帯を構築するための、第一歩なのである。