故人を弔うということの意味──『マイ・ブロークン・マリコ』覚書
2022年9月27日、安倍晋三元首相の国葬儀が多くの批判がなされるなかで実施された。
①法律の根拠がないことが憲法41条違反(法律の留保原則違反)であるという主張
②特定故人の死のみを国家が特別視することが憲法14条1項違反(平等原則違反)であるという主張
しかし、これらの主張に加えて国葬が提起する問題のうち、もっとも重要な問題は、③憲法19条違反(思想良心の自由の侵害)の主張であると考えられる。
そして、思想良心の自由の侵害の問題であるならば、自衛官合祀訴訟最高裁大法廷判決と、ソフォクレスの『アンティゴネー』の問題意識がせりだしてくる。
「原告にとって自分の宗教と異なる宗教に則って埋葬されるのが嫌だったのではありません。合祀は埋葬というのともちがうようですし、「だからあなたの葬送儀礼とも両立しますよ、そう固いこと言わないで、向こうも自由じゃないですか」と裁判所は言っていますが、しかしまさにこれが最悪なんです。葬送儀礼が覆いかぶさる。二重になる。A宗教の個人対B宗教の個人でも大変だけど、原告は受け容れるでしょう。しかし厳格といい加減の二重で、しかも厳格といい加減のあいだのいい加減を受け容れろと言う。日本社会の体質です。これがいけない。」(木庭顕『笑うケースメソッドⅡ現代日本公法学の基礎問う』(勁草書房、2017)159-160頁)
「しかもこれまでのよりもっと根底的基底的であるように見えます。本当の宗教はそういうところで働くのかあ、と思いました。単一性はたしかに死に際しての社会の再構築に関係しますね。しかしこの場合、再構築されるのは、最後の一人からなるデモクラシーの基盤です。「どういう再編成がおこなわれるかは知りませんが、といかう一元的に儀礼空間ができあがります」というそれではない。片隅の遺体の、かけがえのない孤独な単一性に変換されています。集団でなく一人がそこに連帯するという儀礼空間であり、再編成後の像、原告のこれからの人生と社会もそのままこれです。だから、アンティゴネーにとっての墓です。」(同160頁)
「祖国を裏切って敵に与して戦い戦死した兄の埋葬をアンティゴネーが死を賭して望んだ理由は、肉親に対する情ではありません。死をもって埋葬を禁ずるクレオンのほうこそ、計算しまくり、この政治的決定こそは国益に沿うと言いますが、じつは敵味方、血と土、互酬性、見せしめ等々の古い観念に毒されています。
アンティゴネーは、そうした利益計算が集団のロジックに他ならず、個人のかけがえのなさを踏みにじる、ということを透徹した論理で明るみに出します、彼女の立場は、究極の敵味方関係にも抗する、彼が自分自身にとって替えが効かないという関係、これを地表面の1点にピンで刺す、何物にも動かされないハリネズミのような小宇宙とする、そうしたものです。
デモクラシーとは意味不明の利益計算ではなくこちらのことではないか、とアンティゴネーは言います。徹底した反コンフォルミスムです。アンティゴネーが決行したこの小さな連帯こそ、現に大きくなります。人びとはそれこそ連帯に足るものであると簡単に理解できます。一人残らずアンティゴネーに連帯して「私も一緒に死にます」と申し出てクレオンを破滅に追い込みました。」(同160-161頁)
つまり、『アンティゴネー』を迂回して眺めれば、自衛官合祀訴訟最高裁大法廷判決のポイントは、「彼が自分自身にとって替えが効かないという関係」を持つ個人の真摯な意向を尊重できるか、にあった。そのような「替えが効かない関係」を持っていたのは、「合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図る」ことを目的としていた自衛隊、隊友会、護国神社、そして果ては合祀運動、そして義父の側にではなく、原告たる妻の側にあったことは明らかである。
かかる観点から見たとき、既に故人の葬儀が終わっている後になされる国葬儀の本質的意味は明らかである。
それは、アンティゴネーが提示した型のデモクラシー、つまり「個人の尊厳」を基盤としたデモクラシーとはまさに対極の、蟻川恒正がバーネット判決から剔出したsymbolによる思考のshort-cutの問題系、コンフォルミスムを支えるmobを作出するあのsymbolの問題系そのものである。
つまり、故人の国家的象徴化こそが国葬儀の本質である。たとえば憲法1条は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」である「天皇」の「地位」は、「主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。ゆえに、国葬儀は本来「国民の総意」がなければできない事柄であるはずである。にもかかわらず、国民投票はおろか国会同意すらなく、岸田政権は内閣限りで決定した。これが憲法19条違反でなくてなんであろうか。
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さて、振り返ってみると、『マイ・ブロークン・マリコ』においては、マリコと大親友とも恋人ともつかない関係だった主人公・トモヨが、マリコが転落死したというニュースをテレビで見たところから物語が始まる。そして、マリコを肉体的・性的に虐待していた父親のところに遺骨が直送されたとマンションの管理人に聞いて、包丁を携えて遺骨の入った骨壺の強奪を行い、マリコの遺骨と共に(マリコが行きたかった岬まで)旅をする物語である。その遺骨を奪って以降の旅の過程で、トモヨはマリコとの間の、嬉しかった思い出も悲しかった思い出もめんどくさいなあと思った思い出も色々な思い出を思い出す。そうして最後、トモヨはマリコの遺骨を崖の上において「なんでせめて一緒に死のうって言ってくれなかったんだよ・・・友達の死を止められない無力感をそこで見ていろ!」と告げて海に飛び降りようとするも現地で知り合った釣り人に止められて失敗。しかしそのとき男に襲われて逃げてきた女学生が助けを求め2人の前に現れ、トモヨは男をマリコの骨壺で殴って捕まえるが、その際に骨壺が砕け、マリコの骨は意図せず海に散布されてしまう。結局、もとのマンションに帰り、職場にも戻ったトモヨであったが、数日後、マリコの父の再婚相手(トモヨいわく、「めっちゃいい人」)が、トモヨが遺骨を強奪した際に置き忘れてきた靴と一緒に、自身の手紙と、トモヨの遺書を紙袋に入れて玄関扉につるしておいてくれた。その遺書が果たしてどのような内容であったかは、劇中で明示されず、ただ、トモヨの笑顔、泣き顔・・・などから想像するしかない。
しかし、本来故人を弔うということは、こういうことではないだろうか。
旅先でトモヨと偶然出会った釣り人が最後別れ際にトモヨに告げるように、「忘れないこと」の前提は、故人を知る者が「生き続けること」でもある。
葬儀は、故人が社会で占めていた地位に伴う社会的権力関係の再編成に関わるものであるから、本来公的な儀礼としてなされる必要があるのであるが、しかし他方で権利義務関係が関係しない場合には、本来、何か大きなセレモニー、儀礼としてなされるようなことではない。
『スパイダーマン ノー・ウェイ・ホーム』では、メイおばさんが命の尽きる瞬間まで守り通した信念を、ピーターが自己の信念として受け継いだことが明示されるのは、ハッピーに「でも、彼女の信念は彼女が助けた人々によって受け継がれています」とメイおばさんの墓の前であった。
個人の精神の自由、現在とこれからを生きていく基盤になる大切な思い出としてその思想良心の根っこに眠るのである。