人文学と法学、それとアニメーション。

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アリアと泥合戦:描けるということは、存在するということ──『映画大好きポンポさん』評註

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1 はじめに

 

『映画大好きポンポさん』には2つの軸がある。

 

一つは、ジーン監督を中心とする「夢と狂気の世界」の映画製作のお話であり、もう一つは銀行員アレンを中心とする信用構造のお話である。

 

後者の信用構造の話は別稿に委ね、本稿では前者の映画製作のお話に焦点を絞る。

 

※なお、別稿とはこちらの拙稿のことである。

hukuroulaw.hatenablog.com

 

 

この軸から見たとき、本作は、大要、卑屈な専門職が成功し周囲の承認を得ていく話、となる。

 

その「成功」の鍵、つまり大ヒットの鍵が観客への「共感」であり、そこでは、暗黙裡のうちに登場人物たちに「感情」があり、読み解くことができ、そしてそれを映画(編集)に織り込むことができる、ことが前提とされている。

 

また、同様に、ジーンやナタリーの成長、そしてそれを担保する自由で闊達な人間関係、ありていに言えば理想的な関係性としての「自由」もまた描かれていると考えられる。

 

かくして、本作では、アニメキャラクターが感情や自由を持つことができることが前提に置かれているのである。

 

本稿ではきわめて短くであるが、本作におけるこういった目に見えない感情や自由を、アニメキャラクターが持つことの論証がなされるその過程を追跡することとする。

 

2 MEISTER

 

ジーンの初監督作品である『MEISTER』は、年老いた天才音楽家、指揮者・ダルベールが失脚し、スイスの広大な自然の中で少女・ナナリーと出会うことで音楽への情熱を取り戻すといったありきたりの物語であるが、その中で繰り返し出てくるキーワードが「アリア」である。

 

尖った正確で、妻子をも切り捨て全てを音楽に注いできたダルベール。

 

そのダルベールが『MEISTER』冒頭で「次はマタイ受難曲だ」と調整役のコルドバに告げたとき、コルドバはダルベールが果たして「アリア」に相応しい「感情」を持っているか?を問う。

 

ダルベールは「私を誰だと思っている」と怒って返す。

 

しかし、ダルベールによるオーケストラ演習の練習は困難を極める。

 

バイオリニストに楽譜を投げつけ、「なんだ、楽譜が間違っていてお前が正しいのか?」と怒鳴りつけ、涙目ながらに「いいえ。ただあなたにとってアリアとは何ですか?」と返されハッとするも返せず、といったシーンもあったものの、公演二週間前になってコルドバにメンバーの総入れ替えを求めるも呆れられ降りられてしまい、案の定公演は失敗する。

 

そして、失意のダルベールは、コルドバに勧められるまま休養としてアルプスに向かい、羊飼いの少女・リリィに出会う。

 

リリィは田舎の羊飼いなので、ダルベールをただのおっさんとしてしか見ない。

 

羊に囲まれたダルベールを群れから連れだし、嵐で飛んだ山羊小屋の屋根を修理させ、魚釣りをさせ、そして「私は帝王と呼ばれてきた。全てを音楽に捧げてきた」と自慢げに語るダルベールはリリィに「誰のために?」と返されて、妻子への思いを思い出すのであった。

 

以上の積み重ねの上で、ある日の月夜、リリィが素晴らしい歌声でアリアを歌っているのを聞いて、ダルベールは音楽への情熱を再び思い出すのであった。

 

そこでダルベールが想起したのは、かつて出ていった妻が出ていった日にダルベールに告げた、「あなたの音楽は確かに素晴らしい。しかし、いつか私とあの子のためにだけ弾いてくれたアリア。あれだけは最低の出来だった。」という言葉と、そしてかつて自分の母が慈しみをもってピアノを教えてくれていた頃の少年時代の自分である。

 

アメリカに戻り、喫茶店コルドバを呼び出し、再びアリアのオーケストラをセッティングしてくれるよう懇願し、土下座までするダルベール。

 

かくしてダルベールは指揮中に微笑みすら浮かべ、観客全員を引きこむ名演奏をやってのけ、マタイ受難曲のオーケストラを成功させる。

 

それを聞きに来ていた元妻と今は大きくなった娘。

自分の父がダルベールであることを知らない娘が「懐かしい」と言うのを横目に、元妻は「もう聞くことのない、私たちだけのためだけの下手くそなアリア」と内心呟くのであった。

 

3 アリア

 

以上から、『MEISTER』の鍵はアリアである。

 

それは独唱曲であり、奏でる人間の感情そのものである。

 

ジーンは『MEISTER』の編集作業に行き詰り、ペーターゼン元監督に相談する。

 

そこで繰り広げられる問答が、以下の一連の問答である。

 

ぺーターゼン「映画は誰のためにあると思う」

ジーン「観客のため、です。」

ぺーターゼン「では、君は何で映画を好きになったんじゃ?映画を観るんじゃ?君は映画の中に、自分を見つけたんじゃないかね?さてジーン君。君のフィルムの中に、君はいるかね?」

 

かくしてジーンは、『MEISTER』の中に自分を見つけ、つまり主人公ダルベールと共通する「感情」を探しだし、そしてそれを軸に編集を完了することになるのである。

 

完成した『MEISTER』はジーンのアリアであり、感情であり、そしてその作品は劇中現実の、アレンをはじめとする観客だけではなく、(『MEISTER』の断片しか観れないものの)現実世界の我々の心をも揺さぶるのである。

 

「何かを信じたいから映画を観る」のである。

 

かくして劇中劇の登場人物にすぎないダルベールもそしてまた劇中現実のジーンも、現実世界の我々と同じように感情=アリアを持っていることが論証されるのである。

 

すなわち、アリアがアニメーションとして描けると言うことは、(普遍的な)感情が存在するということの論証なのである。

 

抽象芸術としてのアニメーションはプラトンイデアを提示する。

 

3 泥合戦

 

以上だけでも十分、アニメキャラクターが感情を持つことの論証はできているように思うが、感情に関連して本作の優れている点がもう一つある。

 

それが、ダルベールとリリィが泥合戦をするシーンである。

 

シーン概要は、嵐の中でリリィにせかされて山羊屋根のベニヤに金づちで釘を打ち込みながらぶつくさ文句を言うダルベール、屋根から落ちるダルベール、小屋下の泥で泥だらけになるダルベール、そして小屋から出てきた山羊に顔をぺろりとなめられおびえるダルベール、それを見て思わず吹き出すリリィ、それに対し大人げなく怒ってリリィの顔に泥を投げつけるダルベール、顔に直撃し泥を投げ返すリリィ、「このガキが!」と怒鳴り泥を投げ返すダルベール、そして両者ともさながらコメディのように泥で滑って地面に寝転がり、上から撮影すると大の字の二人の頭の部分が重なるように向かい合っているシーンになり、雨が上がり、虹が出て、その背景の虹を二人が座って見上げるシーンで終わりとなる。

 

このシーンはキャラクターと感情という問題において非常に象徴的であると思われる。

 

泥合戦というのは、①精神があること(神話)、②身体があること(儀礼)、③身体で区切られた精神がある=身体を軸とした精神の自由があること(精神しかなければ泥団子は投げれないし、相手にもぶつけられない)、④しかしモノやサービスのやりとりをしているわけではないこと(贈与交換echangeをしているのではなく遊んでいるのである)の4つが自動的に含意される。

 

贈与交換をしない他者とのやりとりは支配服従関係から解放された自由な人格による自由な人間関係である。

 

すなわち、この泥合戦で経験する①~④は今までの「帝王」のままではできない。

 

リリィという女性の子供というマイノリティの典型が、しかし、男性の年配者で音楽界の権力者であり「帝王」と呼ばれるダルベールと、「対等な他者」同士の関係に入っていなければ、実現できないのである。

 

リリィは、ちょうど、マタイ受難曲公演でダルベールが楽譜をぶつけ怒鳴りつけていたバイオリニストの女性とは正反対の位置にいるのである。

 

そして、このことはなにも劇中劇である『MEISTER』の中でだけ実現している自由であり、関係性ではない。

 

このシーンの撮影前に、役者とスタッフが会話するシーンが入る。

そこで、大要、

 

マーティン「なあ監督、ダルベールが屋根から落ちるっていうのはどうだろうか?」

ジーン「えっ?」

マーティン「いや、ダルベールの無様な様子がもっと欲しいんじゃないかと思ってね」

ナタリー「そしてダルベールが怒ってリリィに泥をなげつける!」

マーティン「え?」

ナタリー「あっ・・・私ごときがマーティンさんに意見など。すみません!」

マーティン「いや、驚いたのは、その意見がとっても良かったからだよ!」

 

この後、ほかのスタッフたちからも、「マーティンが落ちる先はドアの前にしましょう」とか「出てきた山羊に顔を舐められるというのは?」と自由闊達なアイディアが出され、全て採用される。

 

さながら出町枡形商店街で『たまこまーけっと』のロケハンをしていた京アニチームさながらの描写であるが、その劇中現実では、「伝説の世界一の俳優」マーテインに萎縮し発言できない、撮影開始前の関係者の顔合わせパーティ時の気弱なナタリーはもういないのである。

 

ここでは、劇中現実での自由な人格を持つ人間同士が織りなす自由な人間関係(ナタリーとマーテイン)と、劇中劇におけるそれ(リリーとダルベール)が二重写しになることで、そのようなものが存在しうることが二重に強調され、論証されている。

 

すなわち、「自由」が描けるということは、「自由」はあるのである、と。

 

4 おわりに

 

以上のように、本作は、劇中現実と劇中劇を行き来することで、目に見えない「感情」や「自由」をアニメキャラクターが持ちうること、そられの普遍性、そしてそれらが抽象芸術であるアニメーションによって描けると言うことは、イデアとして存在することを論証しているのである。