少しでも気づかれてしまえば傷つきこわれてしまうような脆弱な心の機微──『ミューズは溺れない』評註
こういう映画を年に数本観る(見つける)ために映画館に通っているといっても過言でないスバラシイ作品……今思い返しても嘆息が出る。
1.ショット
まずはショットが一々美しい。
冒頭の漁港で朔子が落ちる前の、朔子と光の視線が(モンタージュであるが)合うシーン。
1-2階の階段の踊り場、溺れる朔子の絵を向いている朔子を追いかける光というショット。
(また、次の2-3階の踊り場には「天才と言われたくはない」という新聞記事(?))
下校時にゴルフ打ちっぱなし場横の工事現場をひとり歩く朔子(また、家解体後に朔子と光が廃材を頭に乗せて運んでるシーンも)
美術室で向かい合うモデルの朔子と描き手の光。
ラストの海の2人で箱舟を押すシーン。
満面の笑みの光。
2.主題
冒頭の、朔子。港で船の模写をしているが、鉛筆で線を書き、消す。
美術室で、朔子をモデルに光が絵を描いているシーンで、朔子からの「西原さんは絵を描いてて怖くならないの……いや、ならないか」という問いへの「怖いよ。最初の一本を書いちゃうともう取り消せなくなっちゃうから、そこに辻褄合わせで付け足していく。でも、そうして前に進んでいくしかないんだよ。」という、寡黙な光の饒舌な返答。
線の揺らぎ(これは淺雄監督自身が言及されていたが)は、性自認や性指向の揺らぎであり、それはすなわちアイデンティティの揺らぎ、さらには人間関係の揺らぎを示唆している。
「好きなことを仕事にするのって怖くない」は、「私、木崎さんのこと好きなんだよ。怖くないの?」に繋がる。
「自分自身で決める」と言っている朔子や光自身がなにより、自分に自信がない。他人の評価が気になって仕方がない。それを遮断するために、自分から壁を作り、光は他人を諦めた。朔子には恋愛がわからない。でも、それをぶち壊したのは、おそらくシス・ヘテロの栄美の「踏み込んだらダメなの?じゃあ説明してよ!」と言うセリフだった。正直、栄美は何もわかってないヤツだと思っていたのだが、案外そうでもなかった。
朝日の光──西原光──「私だれかと朝まで居たいと思ったの、はじめて」という朔子の光への言葉──箱舟の上に停まる白い鳩(ノアの箱舟のエピソード〔淺雄監督が明示的に言及〕)。希望の光。ノアの箱舟のとおら、虹がかかるシーンがあればあるいは完璧だったのかもしれないが(もちろん、ゲイレインボーに繋がる)、それはちょっとやりすぎだと考えて、あえていれなかった、とこれも淺雄監督談。
人間関係の破壊と再創造の主題は、土地区画整理事業による自宅の取り壊しと引っ越しにも響く。
またもう一つ、才能と進路の話も通奏低音としてあるが、これは「好き」と「愛」さらには「アイデンティティ」の系に回収されているように思う。
3.演技
朔子と光、そして栄美の緊張感ある演技もたまらない。
光が口数が少ないし、表情もあまり変わらない中性的な顔でもあるため、ショットが語る(語らざるを得ない)シーン、静かなシーンが多い。
また主題が性自認や性指向にかかわるだけに、誰が好きか、あるいは人を好きになるかどうかを開示するかしないかが常に緊張感を保って現前する。