人文学と法学、それとアニメーション。

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法制度vs社会慣行/社会慣行認定権者としての国会vs裁判所/夫婦別氏の社会慣行不存在を埋める旧姓通称使用──第二次夫婦別氏訴訟(最大判令和3年6月23日裁判所ウェブサイト)覚書

1.法制度vs社会慣行

 本判決の多数意見は、2頁にすぎず、実質的な理由は各小法廷から一人づつが出て書かれている深山・岡村・長嶺補足意見にあると見てよいであろう。そして、かかる補足意見と三浦意見、宮崎・宇賀反対意見、草野反対意見が対抗するという関係にある。なかでも宮崎・宇賀反対意見は、第一次夫婦別氏訴訟最高裁判決岡部反対意見(櫻井、鬼丸同調、山浦一部同調)で採られた憲法24条2項違反という構成ではなく、同条1項違反という構成を行い、また非常に多くの分量からなる説得的な論理構成を行っている。そこで、本稿では、主として深山・岡村・長嶺補足意見(以下、「補足意見」とする)と宮崎・宇賀反対意見(以下「宮崎・宇賀反対意見」とする)の対抗について扱いたいと思う。

 補足意見は民法750条、戸籍法74条1号が全体として「夫婦となろうとする者の一方が従前の氏を改めて夫婦同氏とすることを婚姻の要件」(2頁)としていることは「間接的な制約」(3頁)であるとする。しかし、これは結論の先取りにすぎず、審査密度を決定するための推論の起点たりえていないように思われる(もちろん違憲判断にあたり審査密度の設定が必ずしも要求されるものでも、日本の最高裁判所がそういう論証手続(形式)又は思考過程(実質)を経なければならない義務もなければ、現にそれがなされているということでもないのではあるが)。

 なぜ結論の先取りであると私が考えるかというと、おそらく補足意見は「法律婚制度」としての「婚姻」を憲法24条1項の「婚姻」の定義として採用しているからである。

 

 「憲法24条1項は、婚姻をするかどうか、いつ誰と婚姻をするかについては、当事者間の自由かつ平等な意思決定に委ねられるべきであるという趣旨を明らかにしたものであるところ、ここでいう婚姻も法律婚であって、これは、法制度のパッケージとして構築されるものにほかならない。」(3頁)

 

 つまり、いわば婚姻法がそのまま憲法に取り込まれる形になる(財産権における「法制度保障」[1]に近い)。結果、法による同氏要求が仮になんらかの負担を婚姻しようとする者に課すにしろ、それが憲法問題を生じる「直接の制約」であるわけがない。この理路の文章的表現が「間接的な制約」なのである。

 他方宮崎・宇賀反対意見は、かかる多数意見の理路を攻撃するから、憲法24条1項の「婚姻」を「法律婚」と同視するロジックには乗れない。必然、なんらかの「原形」[2]が要求される。そこで登場するのが婚姻は「国家が提供するサービス」ではなく「社会で自生的に成立」したもの(20頁)、つまりロックの自然権的財産権観念とパラレルな形で、前国家的な婚姻制度がまず存在し、憲法はそれを取り込んで保障したから、国家が自由に制度構築できるという補足意見は最初から間違っている。この理路の文章表現が「直接の制約」(22頁)である(もっとも、何に対しての「直接の制約」かは後述)。

 図式的にまとめると、

 

            法制度としての婚姻(補足意見)

                  vs

      社会における自生的秩序としての婚姻(宮崎・宇賀反対意見)

 

 と整理できよう。

 しかし、実は問題はこの先にある。

 宮崎・宇賀反対意見は「社会における自生的秩序としての婚姻」を語るが、「社会で自生した」「婚姻」という社会慣行について法社会学的に探究する作業をしているわけではない。

 宮崎・宇賀反対意見いわく、「婚姻自体は……両当事者の終生的共同生活を目的とする結合として……一定の方式を伴って社会的に認められた人間の営み」であり、「私たちは、原則として、憲法24条1項の婚姻はその意味と解すべきであると考える」(20頁)、という、常識的・社会通念的な理解を提示するにとどまっているように思われる。

 そして、かかる「婚姻」の定義が、果たして憲法24条1項の「婚姻」と一致するかもまた、自明とまでは言えない。

 

2.社会慣行認定権者としての国会vs裁判所

 そして、もし仮に、法制度論ではなく現実の社会慣行論を採用するとなった場合には、今度はその社会慣行の認定権者が一体誰かが問題となり、この場合「国民の意識がいかなる状況にあるかということ自体、国民を代表する選挙された議員で構成される国会において評価、判断されることが原則であると考えられ」(5頁)、「国民的議論、すなわち民主主義的なプロセスに委ねることによって合理的な仕組みの在り方を幅広く検討して決めるようにす」(7頁。最大判平成27年12月16日寺田補足意見を引用)べきであるという前提に立つならば、それは国会が判断するということ、すなわち原則として現在の立法を追認するという帰結となり、補足意見に限りなく近づくのではないだろうか。

 他方で、裁判所が判断するということになれば、果たしてそのような社会慣行の認定を行う機関として裁判所がふさわしいかが問題になる。この点では三浦意見が参考になる。同意見は「婚姻の自由を制約することの合理性が問題となる以上、その判断は、人格権や法の下の平等と同様に、憲法上の保障に関する法的な問題であり、民主主義的なプロセスに委ねるのがふさわしいというべき問題ではない」(11頁)とし、またその理由として「本件各規定は、その文言上性別に基づく差別的な取扱いを定めているわけではないが、長年にわたり、夫婦になろうとする者の間の個々の協議の結果として、夫の氏を選択する夫婦が圧倒的多数を占めており、現実に、多くの女性が、婚姻の際に氏を改めることによる不利益を受けている。このことは、国民の間に、夫婦の氏の選択について極端な偏りを生じさせる意識や考え方が広く存在することを明らかに示しており、夫婦となろうとする者双方の真に自由な選択の結果ということ自体にも疑問が生ずるところである」(13頁)と女性に対する間接差別の存在から一般人の間にある差別意識について推論し、さらにその上で「この問題に関する立法のプロセスについても、これらの事情に伴う影響を否定し難いところであろう」(14頁)として、立法過程すら世間一般の偏見にさらされていることを指摘し、裁判所がふさわしいことを論証している。三浦意見が平成27年最大判の寺田補足意見の「プロセス」という文言に反応しているからかどうかはわからないが、Carolene Products判決[3](1938年)脚注4の「切り離され孤立した少数者」[4]というフレーズが想起される。

 

3.夫婦別氏の社会慣行不存在を埋める旧姓通称使用

 その上で、規範論ではなく社会慣行論からなお違憲論を支持できるか考えてみる。これを考える手がかりとして、同性婚、しかもアメリカのケースであるが、連邦婚姻防衛法が違憲と判断されたWindsor判決[5](2013)を用いる。同判決においては、州法レベルで同性婚が認められつつあったところで連邦の超党派議員団が連邦法上の婚姻や配偶者の定義を同性婚に限ることとした同法の規定が違憲とされたものであり、その際の不都合として連邦公務員の配偶者が誘拐されても同性婚であれば保護の対象にならないなど現状と解離した結果が生じうることなどの不合理性が指摘された。同判決では、同性婚が既に多くの州で法的に認められていたものを連邦法レベルで婚姻と認めないことで覆がえそうとしたことがまさに問題だったのである。そこで語られる社会慣行は実は州レベルで認められている同性婚であった可能性がある。しかし、日本には夫婦同氏について先行するたとえば都道府県や市区町村レベルでの夫婦別氏の婚姻制度は存在しない(この点、市区町村レベルでの同性パートナシップ制度や企業レベルでの配偶者控除の同性パートナーへの拡張が見られる同性婚とはやはり異なるところである)。もっとも、「平成27年大法廷判決以降、女性による旧姓の通称使用を容易にするための方策が相次いで採られてきた」(34頁)ところである。このような社会的需要がある事実を、夫婦同氏制の社会慣行を基礎づける事情として積極的に評価し、夫婦同氏の社会慣行があると評価することはなお可能であるように思われる。

 

4.決め手としての「生来の氏名についての人格権」と規範論

 以上論じてきたように、憲法24条1項の「婚姻」を巡っては、それを法制度と見るか社会慣行と見るか、社会慣行と見る場合にその認定権者は誰か、という分岐があったのであった。そして、平成27年最大判後の旧姓の通称使用の拡大などを踏まえると、選択的夫婦別氏制度を社会慣行として基礎づける事情があると認定しうる可能性があることまでは論じた。

 しかし、宮崎・宇賀反対意見はもっと直截に、憲法13条から導かれる権利としての「生来の氏に関する人格権」を認め、「この人格的利益は、法律によって創設された権利でも、法制度によって与えられた利益や法制度の反射的利益などというものでもなく、人間としての人格的、自律的な営みによって生ずるものであるから、氏が法制度上自由に選択できず、出生時に法制度上のルールによって決められることは、この人格的利益を否定する理由にはなり得ない」(23-4頁)とし、ここを梃子に、「婚姻後もそれぞれの人格の象徴であった生来の氏名を維持することを希望する者にとっては、夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは、婚姻をするについての意思決定は、上記のような人格的利益の喪失を受け入れるという(本人の希望に反する)意思決定と同時にしない限り、婚姻の意思決定として法的に認められない」から、「憲法24条1項の婚姻は、民法によって定められた婚姻制度上の婚姻から……憲法適合性を欠く制約を除外した内容でなければならない」(21頁)という規範にあてはめると、民法750条、戸籍法74条1号は「婚姻しようとする当事者双方が生来の氏を称することを希望する者に対して、夫婦に同氏を強制し婚姻届に単一の氏の記載を義務付ける点で、憲法24条1項の趣旨に反する」(29頁)。

 ここでもポイントは、「生来の氏名に関する人格権」を、(宮崎・宇賀反対意見がいう)憲法24条1項の「婚姻」同様に前国家的、前(憲)法制度的ないわば自然権のようなものを、憲法(13条)上の権利ないし規範(に取り込んだもの)として観念し、かかる規範論によって現実の法制度であれ社会慣行であれ、夫婦同氏しか認めていない民法、戸籍法の規定を遠慮なく違憲無効とするところにある。

 

[1] 安念潤司憲法が財産権を保護することの意味」長谷部恭男編『リーディングス現代の憲法』(日本評論社、1995年)138頁以下、石川健治「財産権①②」小山剛=駒村圭吾『論点探究憲法 第2版』(弘文堂、2013年)224頁以下。

[2] 憲法29条1項の「財産権」について、安念・前掲注1)。ただし安念の文脈では宮崎・宇賀反対意見と異なり「民法」が「原形」にはなるが。また同じく財産権について長谷部恭男の「ベースライン」論(長谷部恭男『憲法 第5版』(新世社、2011年)240頁以下)も参照。

[3] United States v. Carolene Products Co., 304 U.S. 144 (1938).

[4] 松井茂記アメリ憲法入門 第8版』(有斐閣、2018年)23頁。

[5] United States v. Windsor, 570 U.S. 744 (2013).


2021年8月18日、Windsor判決の説明及び最後の一文について、紛らわしかったため実質的な修正を加え、他の箇所で接続詞を1箇所修正を加え、合計3箇所の修正した。