人文学と法学、それとアニメーション。

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「承認」の位相――「かけがえのなさ」を巡る憲法と『クズの本懐』の管轄領域

1 はじめに

 横槍メンゴクズの本懐』(スクウェア・エニックス、2013‐2018年)[1]の著名なセリフに、こんなセリフがある。

 

          私たちは、付き合っている。

          でも、お互いがお互いの、かけがえのある恋人。

 

(アニメ版PV)

https://www.youtube.com/watch?v=iNBoRqmKJtM

 

 他方、憲法学において、憲法13条の「個人として尊重される」とは、一人一人が「かけがえのない個人」として尊重される、という意味であると理解されてきた。(高橋和之立憲主義日本国憲法 第5版』(有斐閣、2020年)159‐160頁は「特別犠牲を強制されない権利」という項目を持つ。なおこの点を近時の応用に押し出しているのが青井未帆で同「特別犠牲を強制されない権利」戸松秀典=野坂泰司『憲法訴訟の現状分析』(有斐閣、2012年))

 

 私がひっかかったのは、この同じシニフィアンで表される「かけがえ」とは、同じものなのか、それとも違うものなのか、ということである。

 以下は、かかる疑問に対しての考察である。

 

2 「かけがえ」

 「かけがえのある」とは、交換可能であるということであり、「かけがえのない」とは交換不可能であることである。

 すなわち、「かけがえのある恋人」とは交換可能な恋人であり、「かけがえのない個人」とは交換不可能な個人である。

 この交換可能/不可能という字面の上では、両方の「かけがえ」に違いはない。

 しかし、両者の「かけがえ」はやはり違うような気がする。

 どこが違うのか?

 

3 関係性の違い

 結論を先に言ってしまえば、違うのは「かけがえ」の語義ではなく、その想定する「関係性」である。

 つまり、「誰にとって」かけがえのない存在なのか?ということである。

 「かけがえのある恋人」は「恋人1にとって恋人2が」である。

 「かけがえのない個人」は「国家にとって個人が」である。

 一応、考察は済んでしまった。

 

4 労働契約/婚姻契約/友人契約?

 「かけがえのない個人」であると言われるが、しかし、その同じ個人に向けて、「人材」という言葉が宛てられる。

 労働部面において、我々は「社会の歯車」にすぎない。

 詩人・宇野なづきの歌「誰ひとり きみの代わりはいないけど 上位互換が 出回っている」(同『最初からやり直してください』所収)が心に染みるわけである。

 現代社会における成人の、あるいは人生の大部分の時間を占める労働でこういう扱いを受けるのであるから、「かけがえのない個人」も何もあったものではない。

 せめて、自分が自分でいられる関係性、即ち、家族、友人、恋人etc.の前では「かけがえのない個人」でいたいものである。

 しかし、資本主義の荒波は、そんなことを許しはしない。全ては交換可能な商品に、可能な限り置き換えられていく。土地がそうであった。労働力がそうであった。では・・・婚姻がそうならない保証はあるか?友人は?恋人は?

 おそらく、残念ながらない。

 かくして、婚活事業が誕生する。

 そこではもはや人はデータの束にすぎない。

 ルックス、年収、年齢、出身地、子供が欲しいかどうか……

 そうやってデータ断片にされ、それこそAI解析にでもかけられマッチングさせられるのであれば、これはもはや『PSYCHO-PASSサイコパス』シリーズにおけるシビュラシステムと大差ない。

 つまり、現代(資本主義)の下で、唯一残った人間らしい領域、「かけがえのない個人」で居られるはずの領域ですら交換可能性で埋め尽くされつつある。

 そのことへの嫌悪感。

 また、憲法学的にはかかる断片化は「個人の尊厳」との関係で問題があるとされているところでもある[2]

 婚活業者アカウントにヘイトが集まるのはおそらくこのあたりも関係しているのだろう。

 

5 「ピングドラムを探すのだ」?

 「きっと何者にもなれないお前たち」は「ピングドラムを探す」しかない。

 幾原邦彦監督『輪るピングドラム』(2011年)は意味不明の台詞が投げかけられる怒涛の中で始まり、展開する。

 地下鉄、95、教団、テロ…とどうみてもその下敷きの一つにオウム真理教による地下鉄サリン事件があるこの作品は、ラストで再び大規模地下鉄爆弾テロを仕掛ける渡瀬眞悧と冠葉、晶馬、陽毬、苹果、それに桃果との対戦となり、冠葉、晶馬(さらには元からだが桃果)の犠牲によりテロは防がれ、その代償として陽毬と苹果はそれぞれ愛した冠葉と晶馬の存在と記憶を奪われる。

 運命の果実を一緒に食べよう。無償贈与たる林檎の表象。ピングドラムは愛である。

 テロという大きな物語ではなく、愛という小さな物語を。

 それこそが解決である。

 その後、同監督の『さらざんまい』(2019年2)では、アマゾンとゾンビに表象される「欲望」つまり私秘的で自閉的、自己完結的な「欲望」ではなく、レヴィナス的な、「他者への欲望」を諦めて、輪の外に出してはいけない、という『輪るピングドラム』のラストと180度異なる結末を描くが、依然、「大きな物語」ではなく「小さな物語」に目を向けろという点は変わらない。

 しかし、そうすると、今度はその「小さな物語」で成功できない人間はどうなるのか?ということが問題になり、そして現に、見た目が原因か性格が原因かはわからないが、とにかく最初の林檎(運命の果実)を貰えない、それゆえに子供ブロイラーに送られる大量の透明にされた子供たちが生まれることになる。

 インセルという。

 

6 応用:インセルvsフェミニズム

 以上を補助線に使いつつ、ここで現代インターネットでよく見る構図であるインセル(またはミソジニー)vsフェミニズムという論争(?)を(あるいは「論争」にならなさを)検討してみたいと思う。

 インセルとは「"involuntary celibate"(「不本意の禁欲主義者」、「非自発的独身者」)の2語を組合せた混成語である。望んでいるにも拘わらず、恋愛やセックスのパートナーを持つことができず、自身に性的な経験がない原因は対象である相手の側にあると考えるインターネット上のサブカル系コミュニティのメンバーを指す。」[3]

 このインセルミソジニー的であることがしばしばであり[4]、近時理論武装(?)をしてフェミニズムを批判していることがある。

 いわく、「かわいそうランキング」で言えば、フェミニズムが主張する弱者としての女性よりも「キモくてカネのないおっさん」である我々の方が遥かに恵まれておらず、我々が救済されないのはおかしい、このような恵まれない男性に、女性をあてがうべきである、云々。

 しかし、これは、これまでの分析からすれば、位相がズレた主張であると思われる。そして、この位相のズレこそが決定的である。

 すなわち、フェミニストが自分たちの「承認」を求める対象は差別的な諸制度を存置する「国家」や会社などの「社会」に対してである。

 対して、インセルは具体的な「個々人」たる女性である。生身を持たない「国家」や「社会」とお付き合いすることもセックスすることも結婚することもできない。しかし、「承認」を求める相手方が生身の個人である以上、そしてその「承認」の内容が相手方の意思に任されるべき事柄である以上、相手方の意思を無視して一方的に「承認」を請求することは許されないのである。

 要するに、インセルvsフェミニズムは、インセルが一見するとフェミニズムと同位相の社会的「承認」の話をしているように装っているが、その内実は個人的「承認」を求めるものであり、法的・社会的正当性を付与できるような主張ではないということである。

 

7 石川健治イェリネック、愛

 以上の議論は、石川健治が一連の著作においてゲオルグ・イェリネックと共鳴しながら作り上げ、そして未だ積み残している領域の話に関わる。

 すなわち、近代主権国家による一括の垂直「承認(Anerkennung)」ではなお満たされない、そして水平的承認(相互の承認[5]、社会的承認)でもなお満たされない個人的承認、石川がアクセル・ホーネットを引きながら言うところでは「愛関係」[6]の問題である。

 石川は言う。

    「人間の生きる関係というのは、以下のような意味で、多元的であるといわなくてはなりません。いわゆるフランクフルト学派の哲学者で、アクセル・ホネットという人物がいますが、彼のいい方を借りると、人間の関係性については、まず、親密な家族とのattachmentを前提とし、particularな道徳のみが支配する愛(Liebe)の関係、「愛関係」というものが、基層として存在します。その上に、お互いを法人格として尊重し配慮することを前提とする、「法関係」があるのだというわけです。この場合は、お互いが平等で対等な法人格であることの承認が前提です。そして、法人格としての同一性を担保する――自由と平等という――普遍主義的な論理が、法関係の支配的な原理である、ということになります。

 実は、その上にもう一つ、想定される社会関係があります。フランス革命の三大原理には、自由や平等と並んで、fraterniteというのがあります。博愛と訳されていますが、これは文字通りには兄弟愛ですね。人類は皆兄弟、皆連帯し合えるのだ、と考えるわけです。しかも、この相互性としての連帯は、お互いの差異を認めることによって、成立します。古典古代以来の論点であるフィリア(φιλία、philia)論も、この連帯関係にかかわるでしょう。お互いがhomo juridicusとして台頭であるという側面だけで交渉をもつということであれば、これは、のっぺらぼうな同一性が支配する、単なる法関係であって、血の通う付き合いにはなりません。個性とは、自由と平等の法関係では、むしろすり潰されるものですけれども、連帯関係においては、「同一性」ではなく「差異性」が支配しておりますから、お互い異なる点ことがむしろお互いの見所として社会的評価の対象とされます。そして、ひとが、これだけは他の誰でもない自分の取り柄である、という卓越性を打ち出して生きてゆけるのは、そうした自己を承認してくれる連帯関係を生きてゆくことができているからです。

 これらを踏まえた多層的な関係性が人間には存在し、社会的紛争もそれに応じて多重的なものとなります。たとえば、法関係において議論されている侮辱とか名誉毀損といった問題は、ひとの社会的評価にかかわる限りにおいて、むしろ連帯関係を通じて起こることが多い。しかも、自分自身のかけがえのない自己決定、これしかないと信ずる自己実現、そしてそれらに関する自己評価、を全否定されることによって、社会的評価のみならず、主観的な「名誉感情」ひいては「人間の尊厳」が大きく傷つけられたと感じられることが少なくないのも、連帯関係が人間存在にとってなくてはならないものであり、そうした連帯関係における不承認が、単なる社会的評価の貶価を超えて、人間の生きる「意味」の剥奪に直結していると感じられるからです。それゆえ、連帯関係とそこにおけるその場合の痛みの質は、人格の同一性を前提とする「法関係」における権利侵害によるそれとは、元来異なるものです。そこに、particularな「愛関係」とは一線を画した、「友情」や「連帯」の関係の特色があり、この卓越性と相互性が支配する関係は、人間的〈生〉のためには確保されている必要がある。しかも、「家」からも「国家」「統治性」「政治」からも区別された、固有の領域として確保されるべきでありましょう。」[7]

 

 以上の石川の整理では、名誉毀損や侮辱を連帯レベルに位置づけ、その連帯レベルの関係性が傷つけられることをもって「人間の尊厳」が傷つけられ、生きる「意味」の剥奪[8]に繋がるとし、「そこに、particularな「愛関係」とは一線を画した、「友情」や「連帯」の関係の特色があ」 り、と「愛関係」と「友情」「連帯」を区別するが、本稿では「愛関係」と「友情関係」はパラレルな「かけがえのない」個人間の対等な関係であると把握する。

 また、石川は言う。

    「私にとっても一つの大きなテーマは「自我論」と「関係論」です。それをなんとかしたいという気持ちを常にもって仕事をしているわけなのです。」[9]

    「先ほどは三つほど〈私〉の文脈を述べましたが、やはり人間の関係性というのは、何通りか重層的に構成されているはずです。例えばアクセル・ホーネットなんかに言わせれば、三種類ぐらいが重層している。「法関係」は、そのうちの一つに過ぎないわけですね。そしてそこにおける主体を先ほど「普遍人」と言いましたが、やはり〈私〉と普遍的な人間を重ね合わせて語る作法ではあるわけです。それを通じてかなりなことをやってきた実績のある領域だろうと思いますね。

 そこから例えば極めて特殊的で普遍化を直ちには要求しない愛とか家とか家族とかが支配する領域であるとか、あるいは「人間」ではなくて「個」の強調される世界にも手を出してみたいという気持ちをもっているということです。」[10]

 

8 「痛み」に耐えるほかないこと

 差し当たり、以上がインセルへの回答になる。

 つまり、国家も法も社会もその承認されないという実存的な、身を切るような「痛み」[11]に対して、処方箋を出すことはできない。

 そして、フェミニズムリベラリズムも救済にはならない以上、しかもましてそれが「かけがえのない個人」などと唄う一方で一向に救済策を示さないのだから、これに対して敵意を持つことは十分ありうることだろう[12]

 繰り返しになるが、これは国家、法、社会の限界を超えた問題である。

 そして、ゆえにより難しい問題であり、ゆえにインセルの絶望は深い。

 ただ、その絶望故にフェミニズムリベラリズムを攻撃してよいことにはならないし、攻撃はその処方箋にはならないのもまた事実である。

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[1] なお、個人的には、本作は(結局花火と麦がそこまで惹かれあってなかった=やはり「かけがえのある」恋人だったし、「嘘」だったため)成就しなかったバージョンの竹宮ゆゆことらドラ!』であると把握している。

[2] 山本龍彦編著『AIと憲法』(日本経済新聞出版社、2018年)第1章〔山本龍彦執筆〕。

[3] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%AB

[4] もっとも、このミソジニーは願望の裏返しの絶望というか、酸っぱい葡萄というか、ともかくウィトゲンシュタインが言う「痛い!」という発話と同じ機能の、「我々はこれだけ苦しんでいる、助けてくれ」という悲痛を表す言語ゲームなのだとは思う。

[5] 石川健治「承認と自己拘束」『岩波講座現代の法1 現代国家と法(1)』(岩波書店、1997年)38頁。

[6] 同「イン・エゴイストス」長谷部恭男=金泰昌編『公共哲学〈12〉 法律から考える公共性』(東京大学出版会、2004年)200頁。

[7] 同「インディフェレンツ 〈私〉の憲法学」比較法学42巻2号173‐4頁。

[8] たとえば、篠原俊哉監督『凪のあすから』(2013‐4年)11話のあかりの台詞。「でも、もう私の人生には、美海と至さんが必要なの。二人がいないなら、生きてる意味がないのよ。」

[9] 「総合討論Ⅰ」長谷部恭男=金泰昌編『公共哲学〈12〉 法律から考える公共性』(東京大学出版会、2004年)216頁〔石川健治発言〕。

[10] 同上。

[11] 石川・前掲注6)。

[12] なお、アメリカのトランプ支持者について、森本あんりが「承認」の文脈から分析をかけているという風に読めるが、この話はここでは詳述しない(できない)(森本あんり「ハーシュマンからチキンマンへ 移動の自由とポピュリズム松山大学地域研究ジャーナル29号(2019年)6頁以下)。本稿との関係を整理した上で他日を期す。