人文学と法学、それとアニメーション。

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愛、承認、生きる意味──『劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる』覚書

幾原監督は以前から『輪るピングドラム』テレビ版の結末をもっとハッピーエンドにしたかった、そうである。それを今回の映画で描くのだ、とも。

 
しかし、前編を見終わった段階での展望のようにはならず、結局、冠葉・晶馬は世界から消えたまま=テレビ版と同じ結末になってしまった。
 
強いて言えば、テレビ版ラストに出てくる、宮沢賢治銀河鉄道の夜』について議論する二人の見た目が、小さな冠葉と晶馬だったため、この二人は冠葉と晶馬なのか?という議論があったところ、やはり冠葉と晶馬だということが判明した点が新しい点だろうか。劇場映画の本作は、テレビ版のこの二人の来歴についての、つまりテレビ版での運命の乗り換えを再度妨げようとした渡瀬眞悧を阻止した、という物語にすぎなかった。
 
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愛による自己犠牲で愛する者を救う、そこから始まる(愛された=残された者の)物語も悪くはない。
 
しかし、個人的には、自己犠牲にならないですむ結末を用意できればよかったのにな、とは思う。
 
キーワードは「愛(ピングドラム)」を与えることと「承認」、そしてそれに基づく「アイデンティティ」の基礎づけ、アパシーからの脱出である。
 
さまざまな才能や能力による競争がベースの世界では「選ばれる」者と同時に「選ばれない」者が必ず生まれ、そうして「選ばれない」者は「死ぬ」しかない。
 
「こどもブロイラー」は、「選ばれなかった」子供たちを「透明な存在」=「かけがえのある存在」にしてしまう仕組みであり、そのような「かけがえのある」経済的価値しかない存在であることを示すために(さながら過密飼育されただ食肉として提供されるためだけに生きる)ブロイラーと名付けられているのであろう。
 
そのこどもブロイラーから田蕗を救ったのが桃果であり、また陽毬を救ったのが晶馬であった。
 
繰り返しになるが、その際の脱出の鍵は「あなたは特別」「私のために生きて」という、根源的な存在承認、すなわち「愛」に基づく(資本主義経済システムの視点からなされる労働力としての、「かけがえのある」存在承認ではない)「かけがえのない」存在としての承認であった。
 
田蕗脱出時に田蕗の心のアパシー状態の比喩であった「鳥籠に閉じ込められた鳥」が大空に飛び立てたのは印象的である。真の自由は、承認と自尊感情を基盤とする自由でなければ、ありえない(J.ロールズ)。
 
輪るピングドラム=愛の循環。
 
冠葉が晶馬にリンゴを半分わたし、晶馬が陽毬にリンゴを一緒に食べようと言った。
 
あるいは桃果が田蕗とゆりに。
 
あるいは苹果が晶馬に。
 
そういった、愛の連鎖で人はどうにか生きていける。
 
だが、これも繰り返しであるが、であればこそ、せっかくこのタイミングで作り直す映画ならば、結末そのものを変えて欲しかった──陳腐に文字でベタっと「きっと何者かになれる」や「愛してる」と貼り付ける、さながらどこぞの権威主義体制のプロパガンダ映画類似の手法を採用するのではなく。
 
ただのラベリングで云々するのではなく、もっと中身で勝負して欲しかった。
 
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また、これはテレビ版のときからの疑問だが、地下鉄サリン事件のような非常にセンセーショナルな事件を題材にするのであれば、それ相応に調理することが必要であるように思うが、そういった調理が上手くいっているようには思えない。「何者かになれ」ない苦痛と、オウム真理教への「入信」それ自体は関係するとは思うが、「テロ事件」と「何者かになれ」ないこと、あるいは「子供たちを透明にしている」=「かけがえのある労働力にしている」ことがどう絡むのかが正直よくわからない。