人文学と法学、それとアニメーション。

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フィクションの功罪——『岬のマヨイガ』覚書

冒頭のシーケンスは(おそらく東日本大震災の)津波が街を襲ってそこまで日がたっていない沿岸の被災地のなかを、避難所とおぼしき高台の体育館を出たキワ(おばあちゃん)とユイ(17歳)とひより(8歳)が歩いているところから始まる。

流失・倒壊した建物、損傷した橋、堤防、作業をするシャベルカー、行き来するダンプ・・・。

キワはしばらく歩いて到着したやや森の奥にあるボロ家に入り、3人で住むことを宣言する。

当初描かれるのは、震災孤児二人と(これもおそらく家族がいないのであろう)キワとの、震災を経てのとっさの判断としての3人ぐらし、つまりある種の暫定的・アジール的な保護を提供する場所としての「マヨイガ」である。

「避難所」において、被災者であろうスーツに無精ひげのおじさんにひよりがぶつかられ、こけたのにおじさんが誤りもせず、抗議したユイに「そっちが悪い」と食ってかかる状況と非常に対比的で、むしろそのような「避難所」からいわばその場の機転で「孫」だと言って2人を助け出すキワの言動を踏まえると、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』など現実には存在しないのである、と指摘しているかのようである(昨今のコロナ禍であきらかなように、おじさんだからといって余裕があるわけではない、というのはよくわかるのだが、それにしてもより弱い部分(女性や子供、端的に女性の子供)への攻撃が許されるわけではないことに異論はないだろう)。

マヨイガは、キワが2人に昔話として語って聞かせるように、そして現に体験するように、そこに入った者をもてなし、ほぼ願いをかなえてくれる一種のユートピアである。

のちに明かされるが、震災前に両親が交通事故で死に、引き取られた親戚も震災の津波で全滅した、「なんであたしだけ」というつらい思いを心中に秘めていたひよりにとって、あるいは、父親から虐待され、家を飛び出したさなかに震災にあったユイにとって、単に震災に遭ったという以上につらい思いをしてきた二人にとって、「つらい思いをしてきたのだから報われてもよい」という一種の報奨関係として把握すれば、「マヨイガ」は確かにバランスが取れているようにも思える(個人的には、これは『若おかみは小学生!』同様の、特にロジックもなくただひたすらそのつらい状況を視聴者の御涙頂戴のために漫然と積み上げているようにも思われ、ほとんど共感できない部分でもあるが)。

そして、アニメの世界と異なり現実には「マヨイガ」など存在しないのだから、だからこそファンタジーマヨイガや妖怪でファンタジックに解決するのではなく、地に足をつけた形で解決してほしかったと思うところでもある。

たとえば、ユイとひよりの自律とともに、キワとマヨイガが(さながら『シックスセンス』のように)すっと消えてなくなる、という筋がありえた。しかし、結局そうはならず、ユイの将来やりたいことについてキワが質問するくだりは出てくるが未定のままであり、しかもキワは消えずどうやらユイ・ひよりとしばらく岬のマヨイガで暮らすようである。中途半端といえば中途半端な結末ではある。

まぁしかし被災地を置き去りに「復興五輪」の名前だけ借りて東京五輪2021に動員した日本において足をつける先はまたぞろ地獄ではあり、だからこそせめてフィクションくらいは……という配慮なのかもしれない(『マッチ売りの少女』?)。

 

被災地から人を追い出そうと生き残った人たちに心理的圧迫を加えてくる妖怪「アカメ」の話についても、素材としては非常に面白く、そうであるだけにぶつ切りのエピソードとしてではなく、もう少し丁寧に主筋に織り込めなかったかな……と思うところである。

 

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フィクションは、現実を変容させる観念や理念を提示することもあれば、現実逃避のための心地よい空間を作出することもある。これらの機能がいいか悪いかはフィクションの目的による。

本作は、フジテレビの「ずっとおうえんプロジェクト2011+10」の一つをなす作品(ちなみに、あとの二つは、『バクテン!!』と『フラ・フラダンス』)であるが(https://zutto-ouen.com)、これは「独立行政法人日本芸術文化振興会」による「文化庁文化芸術振興費補助金(映画創造活動支援事業)」の一環でもあるようである。

やらない善よりやる偽善、あるいは掲げない善よりかかげた偽善ではあるが、作品自体の当否とは別に、——ひねくれたものの見方であることは百も承知であるが――かかる企画自体、そこはかとなく震災復興にかこつけた搾取や動員、それも文化面でのそれのにおいがしてならない。