Roe v. Wade 判決(1973)の終わりの始まり?──Whole Woman’s Health v. Jackson, 594 U.S. ___ (2021)覚書
※Whole Woman’s Health v. Jackson, 594 U.S. ___ (2021)にざっとではあるが折角目を通したので覚書程度のものをここに記しておく。
2021年9月1日にWhole Woman’s Health v. Jackson, 594 U.S. ___ (2021)決定が下され、「すわ保守派で固められたロバーツ・コートによるRoe v. Wade, 410 U.S. 113 (1973)の判例変更か?」と騒がれている。
たとえば、もともと既に2021年5月にRuth Marcusは「(妊娠)15週間後にほぼすべての中絶を禁止するミシシッピ州法への異議申し立てを審理することに同意」した「2日後、テキサス州知事のGreg Abbottは、胎児の心拍が検出された後、早ければ6週間で中絶を禁止する法律に署名し、妊娠中の女性が同法に違反するのを助けたと市民が信じる人を市民に訴えさせる」と書いており(https://www.washingtonpost.com/opinions/2021/05/21/supreme-court-precedent-takes-leave-absence/)、すでに予想されていた事態ではあった。
しかし、この記事は本案についてのものであり、テキサス州法についての連邦最高裁による本案審理の予定はもっと後のはずであった。
それがこの時期に執行停止(stay)又は差止(injunction)命令の発令可否として連邦最高裁に係属したのはなぜか。
ソトマイヨール反対意見による経緯の説明によれば、「申立人が法の施行を阻止するために訴訟を起こして6週間を超えてから、第5巡回区連邦控訴裁判所は突然地方裁判所の全ての訴訟手続を停止し、月曜日に開始される予定の仮の差止め命令の審理を無効にした。申立人は連邦最高裁に緊急の救済(emergency relief)を要求した」(at.3)ということであり、第5巡回区連邦控訴裁判所の動きにいささか疑念が残るところではある。
ともあれ、テキサス州法の執行停止又は差止命令の可否が争われることとなった。
問題のテキサス州法(S.B.8 §3)は、心音検知可能な、あるいは検査ができない場合の胚又は胎児の中絶を禁止するものであり、その禁止に違反する中絶を、法で禁止されていることを認識しあるいはしなくとも意図して「援助しもしくは唆す」者に対する訴権を私人に付与し、かかる私人による提訴を受けると裁判所は中絶を「援助しもしくは唆す」行為の将来の差し止めと、最低1万ドルの法定損害賠償を禁止された中絶実行又は援助ごとに認めることとなっていた。これは事実上、テキサス州議会が近隣の医療措置を民事的に告発するために賞金を餌に私人を州の代理人とするに等しい。そして、心音検知は概ね妊娠6週目以降は可能であることから、妊娠期間を3分割し、第1期(11週+6日)の間は女性の絶対的な中絶権を憲法上の権利として認めるPlanned Parenthood of Southeastern Pa. v. Casey, 505 U. S. 833, 846 (1992)及びRoe v. Wade, 410 U. S. 113, 164 (1973)と正面から抵触することとなる。
多数意見(アリート、カバノ―、ゴーサッチ、トーマス、バレット)は差止・執行停止を認めない決定をした。
これに対し、ロバーツ首席裁判官とリベラル派3人が反対意見を提出している。
多数意見は、Nken v. Holder, 556 U. S. 418, 434 (2009)やRoman Catholic Diocese of Brooklyn v. Cuomo, 141 S. Ct. 63, 66 (2020) といった先例を引きながら、執行停止又は差止命令のためには、申立人は「本案勝訴の見込みが高い」こと、「執行停止がなければ取り返しのつかない(irreparably)損害」が生じること、衡平法の利益衡量が支持すること、執行停止が公共の利益に合致することを「強く提示する」負担を負うとした。
そして、執行停止又は差止命令には「複雑で新奇な(complex and novel)先行する手続法上の疑問がある」として①差止は対物訴訟ではなく対人訴訟であること、②被申立人のJackson判事が法を適用するか不明確であること、③法はテキサス州の公務員には訴権を与えないこと、④州の判事が差止の対象者になるか不明であること、⑤被申立人の私人は申立人を提訴するつもりがないと宣誓供述書でもって明言していることの5点を指摘し、申立人は上記負担を履行できておらず、執行停止及び差止は認められないとした。
以上の多数意見に対し、「あまりにもひどい(stunning)」(at.1)という極めて強い言葉から始まる反対意見で応答したのがソトマイヨールである。確かに、テキサス州法には多数意見が言うように「複雑で新奇な先行する手続法上の疑問」がある。しかし、それはソトマイヨールの目から見ればテキサス州法は州又は州の公務員が行えば明確に違憲(Roe判決及びCasey判決に反する)な行為を、私人に行わせることで連邦の司法審査(federal judicial scrutiny)を回避する(evade)ものである(at.4)。そんなものを尊重する必要はない。
現にテキサス州の妊娠中絶クリニックでは9月1日をもって中絶を取りやめたところが出てきているということである。
そして、連邦最高裁で違憲審査をしないにしても、最低でもロバーツ反対意見がいうように、下級審がかかる違憲性の問題を評価するまで差止命令を出すのが普通であるがそれもしていない。
「裁判所は、女性の権利だけでなく、判例や法の支配の神聖さも保護するという憲法上の義務を無視することにそのように満足すべきではない。私は反対する。」(at.4)
いずれにしろ、ロバーツが強調するように、本件は執行停止又は差止命令の問題であり、法の合憲性にはなんら触れていない。(at.3)
ギンズバーグ亡き後、本案においてRoe判決、Casey判決が保守色が強まるロバーツ・コートで維持されるのかも含め注目される。
また、個人的には、(憲法上の)妊娠中絶の権利一般をめぐっては以下の2人の論者の指摘が気になっているところである。
「最小限主義的リベラルによれば、寛容及び女性の平等な公民性の賦与という政治的価値は、“中絶するかどうかを女性が自分自身で自由に決められるべきだ”と結論するための十分な論拠となる。人間の生命の始期に関する道徳的・宗教的論争において、政府は一定の立場に与すべきではないからである。しかし、胎児の道徳的地位についてのカトリック教会の立場が正しいならば、つまり中絶とは道徳的に殺人に等しいならば、寛容と女性の平等という政治的価値がどんなに重要であっても、なぜそれを人命尊重という価値よりも優先すべきなのかということは明らかではない。もしカトリックの教義が真ならば、政治的価値の優先性を主張する最小限主義的リベラルの理論は、正戦論の一例とならざるをえない。すなわち、“毎年150万人もの非戦闘員の生命を犠牲にしてまで、何故それらの価値を優先すべきなのか”が示されなければならないからである。」(マイケル・サンデル『民主政の不満 上』24頁)
「……Roe 判決の思考枠組に対して、Ely は次のように評言する。
「立法府の判断に対するRoe 判決の『反論』は、…明らかに間違っているというわけではない。なぜなら、母親が自ら計画した人生を生きる機会や胎児の兎にも角にも生きる機会の相対的重要性に関するひとつの判断を、反合理的な(nonrational)判断を以て置換することは、間違っているとも正しいとも看做され得ないからである。Roe 判決の誤りは、自らが設定した問題に下手に解答したということではなく、むしろ、憲法典が裁判所の任務としていない問題を自ら設定したということにある。」
ここで言われていることは、女性の自己決定の保護と胎児の生存の保護のどちらが優越するかという問いは、判断者の価値選好に拠ってのみ判断され得る、「反合理的」な問いであるということである。すなわち、衝突する諸価値の調整に係る政治行政部門の判断に対し、裁判所が独自の判断を対置することは「反合理的」であり、少なくともRoe 判決はこれに踏み込むべきではなかったとされるのである。」(黒澤修一郎「John Hart Elyの動機審査理論の生成と展開(二・完)」北大法学論集61巻2号66頁)
※2021年9月5日、連邦最高裁への執行停止又は差止命令要求の経緯についてのソトマイヨール反対意見at.3の誤訳を一部修正した。