人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

「神」ならざる「人」の奇跡の物語――『シン・エヴァンゲリオン劇場版』評註

大体この手のビッグタイトルで、かつ伸ばしに伸ばされたものは、結末も複雑曖昧で、名前負けする場合が多いのであるが、しかし、本作は、その「エヴァンゲリオン」を終結させるにふさわしいものであったと思う。非常に満足である。

 

正直、テレビ版から始まって劇場版のQまで、エヴァンゲリオン・シリーズは陰謀論も顔負けの韜晦な造語の数々、組織の数々を死海文書など存在するものなど虚実を織り交ぜつつ編まれ、また登場人物のバックボーンなどについても説明があまりなされないまま物語が進行していくことから、あまりよくわからないなあと思いながら見ていたところであった。

 

しかし、本作は、(神話や槍や渚カヲル周りの話は依然よく分からないものの。笑)非常に分かり易い話であったと思う。

 

***

 

本作は、主要キャラ皆が「成長」し「変化」し、「決断」をつけ「責任」を取っていく(「神」ではなく)「人」の物語であったといえる。そう考えるとやはり『天気の子』の主題系である。マリの「ユイさん、人類の力でもうここまできてるんですよー」も、希望の槍を人造したのも、「神」ではなく「人」の、「希望」とそれに向けた死ぬほどの「努力」と「決断」と「責任」の話であり、それは現実世界では3.11からコロナまで続いている(エヴァ・インフィニテイーが世界を呑み込んでいく様は3.11の津波のようだった)。現実に帰れ、というラストがふさわしいのである。成長を止めたシンジ(とマリ)の成長が再開し、またシンジが「社会人」=「大人」の象徴であるスーツを着ていたこと、実写の駅や航空写真の上にシンジとマリを合成していたのはその徴憑である(さながら『SSSS.GRIDMAN』のラストである)。

 

***

 

今までのエヴァシリーズでは棚上げにされてきた、碇ゲンドウという人。

それは、今までシンジを中心に描かれてきたエヴァシリーズで、シンジが対話を避けてきた存在である以上当然であった。

父子対決の決着を当然に含意するエヴァ・シリーズの最終回らしく、ゲンドウの「人類補完計画」成就への異常な執念・動機がその人柄とともに明らかにされた。

 

さいころから人の集まりが嫌いで、苦痛で、一方的に流しこめ渇望を満たしてくれる「知識」と自分を整える「ピアノ」だけが救いだったこと。シンジが持っていたカセット・プレイヤーはもとはゲンドウが世界を遮断するために使っていたものだったこと。そんなゲンドウが、そんなゲンドウをそのまま受け入れてしまえるユイと出会ってしまったこと。そしてユイを失ったこと。その結果、本当の意味での孤独と、その孤独への恐怖を知ったこと。

 

ゲンドウの計画、ゼーレのシナリオと異なる計画の表向きの目的は「人類補完計画」、すなわち人類の全魂の統合、嘘のない優しい世界の創造であったが、裏側の目的はユイに再び会うこと──だけ──だったのだ。

 

しかし、どれだけつらくても、死者に会えるなどという幻想にとらわれ、過去にとらわれることで現に生きている多くの人間を犠牲にする選択をするべきではなかった(このあたりは『コードギアス』のシャロルとマリアンヌが「嘘のない優しい世界」を作ろうと集合的無意識に全人類を同化しようとした野望と被る。ただ、その結果、シャロルとマリアンヌが最愛の娘の死すら「どうでもいいこと(どうせ復活するから)」と考えるようになってしまった点で最悪の選択だったことはルルーシュが鋭く指摘したとおり)。

 

そして、最後にゲンドウが自身で気づいたように、ユイはいつも身近にいたのだ──ほかならぬユイとの間の子であるシンジとして。それに気づかなかった、いや、気づかないようにしていたのだ。シンジは自分に与えられた天「罰」なのだと、ずっとそう思っていたから(このあたりは『CLANNADアフター』の渚の産褥の話と、汐と向き合えない岡部と被りはする)。

 

『Beautiful World』は、ユイを失ったゲンドウの歌、だったのだろう。

 

その気持ちは、痛いほどわかる。

 

だからこそ、全人類を(事実上)滅ぼしても、願いを叶えたかったのだろう。

 

そのゲンドウも、最後はシンジの説得に応じ、フォース・インパクトを諦める(ラストは、シンジの身代わりになったユイと共に、エヴァのいない世界創造の礎になる?)。

 

***

 

そして、シンジがゲンドウと対話できたのは、『Q』ラストの、ニア・サードインパクトを、渚カヲル自死を前に「何も決断しないこと」によって引き起こした自身の問題を、当初はただ無気力に現実逃避していただけだったのだが、レイ、アスカ、ケンスケ、トウジらと交わる中で認識し(もちろん一番はレイの働きかけだったが)、アスカの「なんで私が怒っているかわかる?」という問いかけに対し解答できるようになっていたためである。

 

「決断しなかった」シンジを誰も責めない世界で、誰からも責められず、むしろ好意を告げられたことで、これらの人を守るために、人類を滅ぼそうとする父親と対決する覚悟を自分の意思で決めるのである。

 

それがわかるから、ミサトは再度、シンジを初号機に乗せるのだ。

 

***

 

ラスト、おそれくシンジが選ぶ伴侶はレイでもアスカでもなくマリであった。

アスカも、そしてシンジ自身も、両者の好意は過去形の形で語られる。

そう、それはおそらく、身寄りがないもの同士、孤立したもの同士の、依存の関係でもあったのだろう(ただ『輪るピングドラム』同様、最初のりんご=ピングドラムの配給がない子供は死んでしまうのだから、偶然に過ぎないとはいえ、また究極的には解消されるべきものであるとはいえ、これがあるかどうかは決定的に重要なのである)。

それが過去形になったということは、もう、自律できたということなのである。

その先で結びなおす関係性こそが、善い人間(あるいは恋愛)関係である。

シンジはマリ、アスカはケンスケ。それでいいのだ。

 

***

 

神話や形而上学の世界において、あるいはフィクションにおいてではなく、現にそこに人が生きている。

 

ニア・サードインパクトという非常に破局的な状況の下でも、人が生きている限りは人は生きているのである。

 

そういった現にある生を、神話や形而上学やフィクション、ゼーレのシナリオなり人類補完計画なりで破砕していいわけがない。

 

大きな物語から小さな物語へ」と一時期殺し文句のように使われたが、まあ、その凡庸な標語をひたすら回収していく話でもあったのかもしれない。

 

***

 

結局は、縦と横の人の紐帯の物語というよくある話に回帰しただけのように思われる。しかし、この12年分の現実世界における蓄積をもしっかりと踏まえ(それは庵野自身の経験とも無関係ではないだろう)、「成長」し「変化」し、それを前提に「決断」し「責任」を取っていく、そして、その先にこそ、決定的破綻を回避する「奇跡」を、「神」ならぬ「人」が起こしうる。

 

「神」ならぬ「人」の物語として非常によくまとまっていたと思う。