本作には大きく二つの物語の筋がある。
一つはエンバーとウェイドの恋物語。
もう一つはエンバーと両親(ないし父)の親子の物語。
そして、そこには移民二世として、移民一世の父が始めた移民街の雑貨屋の跡継ぎとして育てられた一人娘と、当初からの住民であった芸術家やデザイナーの金持ちの弱気な息子の恋という、階層の分脈が明確にしめされている。
移民ないし民族差別。
4つの種族ごとに感情に特徴がある。
そういった民族や差別を超えた恋の文脈は、まぁわかりやすいし感動的である。
ウェイドはなよなよしたオタクだけれど感動屋でどこか憎めない。スタジアムでの母を亡くしたばかりの選手へのエールを気恥ずかしさなく送れる、そういう態度はカッコいい。エンバーもそのあたりに惹かれたのだろう。
そしてエンバーもエンバーで大変魅力的である。
ここでは本作でもう一つ焦点が当てられている親子関係について論じたい。
エンバーがウェイドに正直に打ち明けたように、「家族のために全てを投げ打ってきた父親の恩に報いるためには、私の一生を捧げるしかないの。」
本当は父の雑貨店を継ぎたくはないという、意識しないようにしていた本音が、癇癪紫炎の理由だった。
御恩と奉公のエシャンジュは、鎌倉幕府と武士の間だけではなく、無論、親子関係にもあてはまる。そして、このエシャンジュが本人の自然体を妨げ、ストレスを生じさせる。
ただ、それを認識したのであれば、あとは父にそれを伝えるだけである。…が、それが難しい。夏目漱石『それから』の長井代助が三千代を取り返す決断をするまでに、どれだけ時間がかかったかを想起していただきたい。
雑貨店跡継ぎパーティをぶち壊しにきたウェイドは最高である。あれは本音の表出に必要な、非日常的空間を作り出すための手順なのだ。
しかし、このエシャンジュを断ち切れるかどうかが、真に互いを大切にする親子関係が作れるかの試金石である。
果たして、ウェイドの擬似犠牲の形であったが、エンバーと父は本音で話せるようになる。
そう、父にとっての宝は、雑貨店ではなくてエンバーそのものだったのだ。ウェイドがいうように、話せばわかってくれるのである。
そして、ウェイドとの交際と、雑貨店を継がずガラス工事で働くことを認める。
旅立ちの日の港での、エンバーからの最大の敬意を表す仕草としての土下座的ポーズ。かつて、父は、祖国を捨て移民となる際、祖父にこの土下座的ポーズをしたが、祖父は返さなかった。そのことを父はずっと悔いていた。しかし、今回は娘に対して土下座的ポーズを返す。
三代にわたる親子の確執が回避されたことこそは、父の真の望み・喜びだったのではないか。
そして、恩返しというならば、これこそが恩返しだろう。