人文学と法学、それとアニメーション。

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計算された「完璧」の気持ち悪さ――『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第12話「花ひらく想い」覚書

 第11話のラスト、侑が自分から離れて行ってしまうことの恐怖(もっとも、これは第12話を見た今となっては、それだけではなく、自分自身も変わりつつあり、その変化の結果、自分自身が侑を必要としなくなる可能性からくる恐怖も込みであったとわかる)から、感情を爆発させた歩夢。

 

 どうなることかとひやひやで1週間過ごしたわけであるが、結果としては――概ね予想ができていたところではあるが――非常によい着地点におさまることになった。

 

 優木せつ菜の、半ば巻き込み事故とはいえ三角関係になっていることを察して後の、これ以上ない立ち振る舞い。侑のぎこちなさに気づきフォローをいれると同時に、歩夢の根本的な不安の暴露に対して「大好きを諦めない、いや、大好きは諦められるものではない」メッセージを伝え、歩夢の侑への気持ちを後押しするという役回り。

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 侑は侑で歩夢のファンと共に歩夢のステージを作り、(ファン3人とは異なる、たった1本の)ガーベラのプレゼント。3:1:1の距離=空間をそのまま歩夢への心理的距離の示唆に使う演出。

 

 さながら『リズと青い鳥』を想起させる、しかしハッピーアイスクリームの一致と歩幅の一致程度の示唆だけ残しつつ、明言は避け、全体としてはペンデイングにした同作とは異なり、完全に明言をさせて。

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「侑ちゃん、今までありがとう」「歩夢、今までありがとう」で歩夢が1話と同じく侑だけの前で、同じ階段でステージモードに入り、終わってから「これからも」「よろしくね」。

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お互い一応別々の道に行くのではあるが、しかし一番同士だから問題はないという解決(第11話段階での私の予想では、実は侑の夢は歩夢のために曲を作ることだった…だから実は齟齬はない(離れる必要はない)のだ、くらいに落ち着くと思っていたので、思い切ったな、しかしこっちの方がより自由度が増すので良いと思う)であった。これはしかしさすがに出来過ぎている。あまりにも出来過ぎていて逆に気持ちが悪い。ひょっとすると(ひょっとしなくても)あまりに完璧なものは人間には受け付けられないのかもしれない。

 

 そしてそれはその完璧さの裏側に、コインの裏面として、「お前らこういうの好きやろ?100点になるように計算して作りました、えっへん!」というのが透けて見える感じが人工的な印象、わざとらしいという違和感を作り出しているのではないか。

 

 侑がせつ菜と帰校時に歩夢に声かけたところもまた完璧である。11話ラストから続くもやもやの原因は、侑が11話ラストの場面で歩夢に伝えるべきだったことを伝えられていないからで、そうであればそれを伝える必要がある。侑が歩夢に伝えるべきであったことは①歩夢に最初に伝えようとしたこと②せつ菜が知ったのは偶然であること、であるが、それをあまりにも的確に無駄なく伝えすぎなのである。

 

 そういう意味で、『リズと青い鳥』のみぞれと希美はやっぱりその(計算され尽くした結果の、しかしそれを全くにおわせない)“無駄”(もちろん無駄ではない)が、ほんとに“生っぽい”=実存的だな、と思うのである。

 

 

 この感覚は実は以前『ズートピア』と『シュガーラッシュ2』を見たときにも感じた感覚である。これらの作品の内容と、極めて長々と続くエンドロールから、「個人の尊重や多様性の素晴らしさを謳う美しい、人に感動を与える物語は札束で殴れば作れる」というメッセージを受領してしまったのである。笑

(ちなみに、この感覚を私は秋元康プロデュースの諸アイドルグループ及びアニメについても抱いている。)

 

 ここでも、私は、特に『シュガーラッシュ2』において、友人への依存と嫉妬の問題系の引照点として『リズと青い鳥』を参照し、『リズと青い鳥』のエンドロールの、デイズニー作品と比較したときの圧倒的短さから、「金で殴れば素晴らしい作品はできるだろう。しかし、金で殴らなくても『リズと青い鳥』は作れるんだよ!!!!!!!!!!」と(心の中で)絶叫していたのであった。