人文学と法学、それとアニメーション。

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あなたをとおしてわたしをつくる──近代的自我形成物語としての『やがて君になる』

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仲谷鳰やがて君になる』はいわゆる百合作品の金字塔と目されている。

 

 

 

 

各種サブスクあるいはレンタルビデオ店での消費者の便宜、あるいは分析の開始点としてのprima facieとして百合ジャンルを使うのはともかく、分析の結果として使うことはおそらく不適切であることについては別稿を予定している。従って、本稿では表題のとおり、もっぱら、「2人の関係」ではなく「私」に着目して論じることとする。とはいえ、『やがて君になる』は独我論の世界ではなく、やはり複数人の関係性の話であるから、小糸侑と七海燈子の、あるいは佐伯沙弥香の、関係には当然言及がなされる。作品は同じなのであるから、基本軸は同じであり、違いがあるとすれば、それはあくまでパースペクティブの違いに留まる。

 

 

 

 

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さて、本稿が注目するのは、「やがて君になる」というタイトルと、それとリンクしたストーリーである。

 

 

 

 

ストーリー中では繰り返し「変わってしまうこと」への恐怖が、侑、燈子、沙弥香の3人の口から繰り返し述べられる。

 

 

 

 

その恐怖は、もし自分が変わってしまったら、今の自分を好きでいてくれる相手が、自分のことを好きでなくなってしまう可能性に対する恐怖である。

 

 

 

 

ここでは、「私」は「今あなたが好きでいてくれる私」として静的に同定されている。

 

 

 

 

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しかし、「私」は必ずしも静的なものではない。肉体的加齢による変化、精神的成熟による変化など、私たちは肉体的、精神的に変わっていくことこそがむしろ事実である。その意味で、「私」は動的なものであるというべきである。

 

 

 

 

ゆえに、むしろ静的な「私」像の方こそが異常な、あるいは特異な観念だと言えそうである。

 

 

 

 

そうであれば、問われるべきは、なぜ静的な「私」像が観念されるのか?である。

 

 

 

 

それは不安定な事実(動的な「私」とそれにより変化する他者との関係性)を恐れ、安定を求めるからに他ならない。

 

 

 

 

それは、普遍/不変を目指すことでもある。

 

 

 

 

結婚が普遍/不変を目指すのは、まさに今この瞬間の相思相愛を固定し、永遠にするためである。

 

 

 

 

七海燈子にとっての固定点は、亡くなった姉・澪だった。燈子は澪を固定点とし彼女を忠実に演じることで、完璧な自分という安定し普遍/不変で静的な「私」像を作出・維持していた。

 

 

 

 

同時に、それは仮面、表面上の「私」であり、本来の「私」を燈子自身嫌っている。

 

 

 

 

他者、特に恋愛関係に入ってしまう他者は、表面上では押さえきれなくなり、本来の「私」に到達することで、偽りの安定を破壊し、変化(=不安定化)の起点になりうるからこそ、燈子は「誰とも付き合う気がない」のである。

 

 

 

 

そして、なればこそ燈子はアセクシャル・アロマンティック[1]的である小糸侑に目をつけるのである。

 

 

 

 

仮面を剥がされたくない燈子にとって、アセクシャル・アロマンティック的な侑は、「自分が嫌いな自分」つまり本来の「私」を好きになる可能性がないから、変化の起点にはなりえず、他方で人並みに誰かと繋がりたい(寂しい)燈子にとって、そばに置いておくにあたりこれ以上ないほど都合がいい存在である。

 

 

 

 

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しかし、燈子から甘えられ、キスをしたりデートをしたりを繰り返すうちに、侑は燈子を好きになってしまっていた。

 

 

 

 

まさに「運命の舞台」(『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』)として、姉・澪の悲願として燈子が臨んだ生徒会劇は、侑の(燈子が望まず、そして佐伯沙弥香がそれとわかりつつあえて乗った)シナリオ変更により、色々な面がある主人公が、記憶が戻らないままに、その記憶がないままで過去を踏まえず現在の自分の気持ちに従って判断を下すという結末に終わる。普遍/不変の澪の仮面を被り続けたかった燈子は、もはやその仮面を脱ぎ、本来の自分として振る舞うようになる。もはや澪のように完璧でなくてもよいのだ。

 

 

 

 

生徒会劇終了後の、河原の飛び石のシーンで侑は、「燈子を好きにならない侑」を偽り演じていることに耐えきれなくなってしまい、燈子に嫌われるのもいとわず、思いが溢れるままに「好きです」と告げてしまう。

 

 

 

 

そこから、生徒会劇を経て、変化を封じることをゆっくりとであるがやめ、他者の言葉が届くようになっていた燈子は、自分が侑に相当な無理をさせていたこと、侑だって怖いはずなのに一歩踏み込んできたことを理解するが、自分が侑を好きだと言うことが恐ろしく、燈子はもはや変わった自分を好きにはならないという自己認識を持つ侑が自己解決して走り去るのを追いかけられない。

 

 

 

 

そして、そのまま修学旅行になり、今度は沙弥香が燈子に告白するターンとなる。

 

 

 

 

しかし、燈子の答えは決まっていた。「私は沙弥香を選べない。…選ばない。ごめん。」

 

 

 

 

「悔しいなあ」と告げる沙弥香に対し、「好きって選ぶことなんだ。こんなに重いなんて知らなかった。きっと沙弥香じゃなきゃわからなかった。」と返す燈子。

 

 

 

 

そう、沙弥香がもはや出遅れてしまったと正しく感じていたように、生徒会劇での結末変更も含め、自分が同期なのに怖くて踏み込めなかった燈子に、後輩であるからより怖いはずなのにそれでも頑張って踏み込み、変化をもたらした侑に、燈子もまた惹かれていたのである。そして、なればこそ沙弥香は侑に敬意を表して引くのであり(もとより勝ち目がないのはそうであるが、そういうことではない。『響け!ユーフォニアム』1期11話の、瀧先生が見せた中世古香織への敬譲と全くパラレルなものである)、だからこそ沙弥香は侑と友人になれるのである。

 

 

 

 

ここから先は、もはや燈子と侑の「確認」作業にすぎない。相互に変化することを受け入れ、そしてゆえに(燈子は)2人の関係性に名前をつけたくはないのである。

 

 

 

 

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『劇場版STEINS;GATE 負荷領域のデジャヴ』のように、観察者とまでは言わないが、他者がいるからこそ、「私」は「私」で居られるのであって、これが無人島のロビンソン・クルーソーになってしまうと、「私」と「島の自然」あるいは「島の環境」との境界線は崩壊し、「私」の外部がなくなると同時に、他者も消失するのである。

 

 

 

また、商業信用(bona fides)観念、ひいては個人=近代的自我観念成立の大前提にブルジョア階級の放蕩息子の恋愛があったことはローマ法学者・木庭顕によりつとに指摘されているところである。

 

 

 

哲学者の大庭健によれば[2]、他者が名指す「あなた」=「私」(大庭健)と、「私」(大庭健)が名指す「私」(大庭健)に違いはない。対象は同じなのであるが、実践的な意義が異なるのだ。「私」が「私」と言うとき、それは言明が自身に帰属するという、責任帰属についての宣明であり、この効果は、他者が「私」を指して「あなた」と言う場合には生じない。

 

 

 

そして、幼児期に「私」観念を手に入れるプロセスは、まず他者が存在することを認識し、そして他者についての「あなた」観念(自分の外部についての対象認識)を経て、それを「私」にもあてはめることでなされる(鏡像理論)。

 

 

 

 

「好き」を知らない少女、小糸侑は「侑=you=あなた=君」である。かくして、『やがて君になる』というタイトルは、近代的自我を持たなかった「侑=you」が、他者たる燈子を経由して、強固な「私」観念を手に入れる物語なのである。

 

 

 

 

 

 

 

[1]松浦優「アセクシャル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向:仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」現代思想vol.49-10 70頁以下。

[2] 以下の記述は概ね大庭健『私はどうして私なのか 分析哲学による自我論入門』(岩波書店、2009)による。