人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

手を伸ばす勇気――『ジョゼと虎と魚たち』覚書

大学生でたくさんのクラリオンエンゼルフィッシュをその目で見ることを夢見る恒夫は、ある日、ものすごいスピードで坂道を下ってきた車椅子の少女・ジョゼを偶然助け、ジョゼの祖母・チヅから「バイト」を持ちかけられる。――それは、ジョゼのお願いを聞くことだった。

 

ツンデレ・・・というか全くデレてはいないジョゼ。

 

最初、ジョゼが坂道を滑り降りてきたのは、「誰かに突き飛ばされたから」。また、劇中では券売機前の車椅子のジョゼを見て「邪魔なんだよ」と小言を言い舌打ちする男、スーツケースをジョゼの車椅子に引っ掛け恒夫に声をかけられても誤らない男など、「猛獣」がいる。――その最たる表象は「虎」なのであるが。

 

そういう状態なので、チヅはジョゼと恒夫に外出禁止を命じるが、ある日ジョゼが家から行方不明になる。ジョゼの部屋にはじめて足を踏み入れた恒夫は、ジョゼがそこで何をしていたのかを、その美しい色彩と独特のタッチの魚たちの絵を見て知る。結局外を探し、ジョゼを見つけた恒夫であるが、ジョゼのお願いを聞き入れ、チヅからの帰宅命令を無視し、2人は海へ行く。このとき駅で車椅子にスーツケースをぶつけた男との言い合いののち、恒夫は車椅子のジョゼと同じ目線までしゃがみこみ会話する。

 

最初のジョゼの外出、海に行くこと以来、ちょくちょくと外出し、そしてジョゼの世界は大きく広がる。クレープ、公園、水族館、図書館・・・普通の(という言い方が適切でない可能性は高いけれど)24歳であれば経験できている普通のことが、ジョゼには新鮮なのである・・・。

 

図書館で愛読書のサガンという共通事項を通じて、司書の岸本花菜という友人もできた。

 

相談支援専門委員がジョゼの自立をチヅに促すが、チヅは実は外出に気づいており、ジョゼが見違えるように明るくなったことを告げる。

 

***

 

しかし、幸福な時はそう長くは続かない。

 

祖母のチヅが亡くなってしまう。天涯孤独となったジョゼ。

 

恒夫は、奨学金と受け入れ先を獲得し、メキシコへの留学とエンゼルフィッシュを見る夢を叶えようとしていた。

 

民生委員と相談員から「近所から通報があった」「もう甘えさせてくれる人はおらん」と言われ、さらには絵を描いて生きていくという夢を嘲笑され、「現実を見ろ」と言われるジョゼ。

 

さらに、恒夫に好意を寄せる舞が、恒夫が留学を前にジョゼを気にかけていることと、おそらくは嫉妬から「恒夫を解放してやってくれ」と言ってくる。「なんであんたにそんなこと言われなあかんの?あんた、恒夫の何なんや?」と返すジョゼに、舞はさらに「恒夫があんたと一緒におるんは、同情や!」と言ってしまう。

 

それを受けてジョゼは、恒夫を解放することにし、「管理人」に最後のお願いをする――海に連れていってくれるように、と。車椅子が電動のものに変わっているのもジョゼの自立の決意である。最初の夕暮れの美しい海とは異なり、薄暗い雨空で、不穏な空気を醸し出している。ジョゼは恒夫に、絵を捨てたこと、事務員として就職し自立することを告げる。それに対して恒夫は、「夢をあきらめるな、なんで手を伸ばさないのか?」と返すが、ジョゼからは、「私は、ずーっと諦めてきた」「もうこれ以上、手を伸ばすんは怖いんや」「健常者には、わからんわ」の返答。

 

恒夫を振り切り、一人で海岸から出たは良いものの、海岸前の6車線道路横断歩道上でタイヤがはまり立ち往生してしまうジョゼ。そして不幸にも、ジョゼに追いつこうとした恒夫が車に跳ねられてしまう。

 

恒夫は、開放骨折により歩けなくなる可能性を知らされる。

 

そしてそれはスキューバダイビングもできず、クラリオンエンゼルフィッシュをも見れなくなることを同時に意味した――教授が登場し、メキシコ留学の件が消えたことも追い討ちをかける。

 

スペイン語の勉強も頑張ってきたのに、教本をゴミ箱に投げ入れ、投げやりの恒夫。

 

「リハビリしたって、もう歩けないかもしれないんだぞ!そんなのして何になる!」

 

そうなってはじめて、事故直前のジョゼとのやりとりで自分がジョゼに言った「夢をあきらめるな、なんで手を伸ばさないのか?」と言った言葉が、あまりにも迂闊だったと、そして今ならばジョゼの言葉の重さがよくわかると、そして自分はもっと強いと思っていたがそうではなかったと認識する。ただでさえ夢に手を伸ばすのは、それが否定されたときにつらいのに、そういう挫折を、障害を持つジョゼはもうずっと経験してきているのだ。

 

そして、もうどうでもいいとばかりにリハビリもせず日々を過ごす。

 

ある日、舞は恒夫のもとを訪れ、病院外の公園で恒夫に告白する。恒夫の返事は・・・明確ではないがおそらくノーなのだ。

 

直後、ジョゼの家に行く舞。さながら借金取り追い込みである。玄関をどんどんとたたき、「あんたなんかよりよっぽど恒夫のいいところ言えるんだから!100は言える!」と啖呵を切る。これには布団にくるまって出る気がなかったジョゼも売り言葉に買い言葉で玄関を開いて出てくる。「あいつは、恒夫は、こんなことで夢を諦めるような奴やない!100個も言えんけど、でも私はそれはわかる!」そう、それがわかるし、だからこそ恒夫が選んだのはジョゼなのだ。そして、それは舞にも自覚があるから、あえてヒールを買って出ているのである。

 

舞に焚き付けられたジョゼは、どうすれば恒夫の夢を復活させられるかを考えに考え、そして岸本にも相談しながら、絵本を作ることにする。

 

そして、ジョゼは松浦隼人を通じて恒夫を病院から図書館に連れてこさせ、子供たちへの読み聞かせを同時に恒夫に聞かせることとする。

 

それは人魚と翼を持つ青年の絵本であった。

 

大要、以下のとおりである。

 

***

 

人魚は願いが叶う貝を手に入れる。ただし貝からは「人間になりたい」「戻りたい」以外の願いをしてはだめだ、と言われる。人間になりたいと願い陸に上がった人魚は、虎に出会い、危機に陥るが、翼を持つ青年に助けられる。人魚と青年はいろんな所へ行き、楽しい思い出を重ねるが、青年がその翼でオレンジの魚たちが泳ぐ黄金の海に旅立つ日が近づく。そんなおり、人魚は再び虎に襲われる。青年が辛うじて助けるが、青年は命が危うくなり、また翼が大きく傷ついた。人魚が貝にお願いしたおかげで一命はとりとめるが、翼は戻らず、もう飛べなくなってしまった。しかし、青年はあきらめず、船で黄金の海に到達できた。一方の人魚は、貝の忠告を破ったためもう海に帰れないと思っていたが、貝は「他人のために使ったのだから問題はない」として人魚は再び人魚に戻れ、青年との思い出の日々を胸に深海で暮しました。

 

***

 

絵本を聞いて涙を流す恒夫。あのジョゼが、自分なんかよりもずっと長い間歩けないということで苦しみ、傷つき、そしていつしか夢を見ることを、手を伸ばすことを諦めてしまったジョゼが、今また絵に手を伸ばし、そしてその絵―絵本の中の、あまりにも直接的比喩であるがそれがまた良い――絵本の中で、今一度夢を見ろ、諦めるなと自分に語りかけてくれている。これは泣かない理由がないし、心に響かない理由がない。

 

そして、もう一度夢を目指すのだと、絶対に適えるのだとリハビリにも必死で取り組み、ついに松葉杖ありでだが歩けるようにはなる。

 

そして退院の日――12月24日に、ジョゼに迎えに来てくれるよう恒夫は頼む。

 

それに対し、ジョゼは「あたい、幸せや……ありがとう」と満面の――しかし、そこはかとなく嘘くさい笑顔で、依頼を承諾する。

 

12月24日昼。

しかし、ジョゼは病院に来なかった。

 

慌ててジョゼの家に行く恒夫。しかし、家の中はさながら引っ越し準備で片付いており、恒夫がかつてジョゼにプレゼントしたエンゼルフィッシュの卓上電灯も段ボールの中に詰められていた。

 

花菜、隼人らに連絡し、必死でジョゼを探す恒夫。

 

動物園の虎の前に車輪を見つけ追跡するが、途中で見失ってしまう。

 

ジョゼは、坂道を下っていた。

 

そこに、散歩中に逃げだした犬をつかまえようとした男がぶつかり、電動車いすは制御がきかなくなり猛スピードで坂を駆け下りる。

 

放り出されたジョゼを受け止めたのは――恒夫だった。

 

そうして抱き合い、恒夫が告白し、ジョゼも告白を返す。

 

恒夫は言う。「メキシコには行く。でもジョゼは好きだ。」

 

***

 

全体的に色調が綺麗であり、またどこのシーンかちょっと忘れてしまったが、水面の上を葉っぱが流れていくシーンは少々震えた。

 

***

 

物語の構造を、きちんとさながら一冊の本のように、後半と前半で折りたたんでいるのも丁寧な作りである。

 

最初に行った海が最後に行った場所になり、一番最初に坂道を猛スピードで下るジョゼが一番最後にも出てくる。

 

***

 

落とし所は非常に現実的で、結局ジョゼは働くし、チヅと過ごした持ち家は解体ーーおそらく売却処分したのだろう。そもそも恒夫も母子家庭の勤労学生であるし、留学しつつジョゼを養う余裕はない。このあたりのリアルな線引き、「おばあちゃんがいなくなっても大丈夫!俺が養う!」とか、おばあちゃんの莫大な遺産といったデウスエクスマキナあるいは石油王ないし貴族カードを切らず、真摯にジョゼと恒夫の「現実」(財産面で家に恵まれているわけではない)を描ききったのは、素晴らしいセンスだったと思う。

 

***

 

障害を持つ人の「自立」とは一体なんなんだろうか。

 

それはおそらく、相談支援専門委員や民生委員が、押しつけがましく「自立」「自立」を連呼し、「一億総活躍」を掲げ個々の障害を持つ人のニーズを無視して介入していくことではない。

 

(が、ダメなもの以上の代案が劇中で示されたかというと、これはよくわからない)

 

しかし他方、障害が『映画 聲の形』ほど主題として先鋭化していないのは、それに拘泥しない(理解がある、と言ってよいかはともかく)恒夫の存在があるからだけではなく、聴覚障害と歩行障害ではコミュニケーションの難易に差があるからだろうと思われる。

 

現に歩行障害で生じる問題は、諸々の物理的社会的障壁故にあらゆることに無気力にならざるを得ない歩行障害者――車椅子使用者の「心性」の話に転換されているように思われる。

 

***

 

フィクションは人を救わないと言われる昨今だが、しかしやはりフィクションは人を救うんじゃないだろうかと私は思う。少なくとも、あのジョゼの絵本がなかったら、恒夫はもう二度と立ち上がれなかったかもしれない、そう思うのである。

 

***

補論1:はじめて恒夫の職場(ダイビングスクール?)を訪れたジョゼに対する舞の「困ったことがあったら、何でも言ってくださいね」は、ほんとこう障害を持つ人に対する当り障りのない言葉と態度で、コミュニケーション能力の高そうな一般社会人=社愛通念ゾンビっぽさが極めて高い言葉であり、舞の性格がよく出ていたと思う。――なお付言であるが、別にこの一点のみで舞がトータルでダメというわけではない。

 

「前述した通り、彼らが常々「誰も信用しない」と断言している。それは、「素性」「裏稼業」を知らないからというより、誰しも置かれた状況に応じて良い方向にも悪い方向にも豹変する可能性があるという理解に基づいているように思われる。カラマたちは……「いま」の状況に限定した形でしか他者を評価しない。一見すると冷たいようにもみえるが、ある種の寛容とも表裏一体である。つまり「ペルソナ」とその裏側に「素顔」があって、「素顔」が分からないから信頼できないのではなく、責任を帰す一貫した普遍の自己などいと認識しているようにみえるのだ。」(小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている』82-3頁)

 

***

補論2:映画を見た直後から違和感があり、爽快感がなかった。その正体は、おそらく、事前の宣伝で強調されていた「青春恋愛小説の金字塔」という主題系をきちんと描けているのか?という疑問、すなわち、各シーンの意味と主題系がうまく結びついておらず、ちぐはぐになっている印象だったのかな、というのが反省的考察の結果である。とりわけ、ラスト、行方不明になったジョゼが坂道で――冒頭の再演のように――偶然、恒夫にキャッチされるのは、全く必然性のない浮いた偶然であり、動物園や海など、ジョゼと恒夫の思い出の地というヒントをきちんと踏んで帰結に至って欲しかった。また、このこととも絡むが、ジョゼの境遇をあまりに軽く描き過ぎではないか?、もっといえばジョゼの境遇に見合うラストでなければジョゼの重みを無視することになる、と直観したようにも思う。12月24日にジョゼが恒夫の前から消えたのは、前日の幸せもんやの台詞と満面の、しかしどこか嘘くさい笑顔と相まって、そして絵本で描いた結末のように、恒夫の足を引っ張らないように、恒夫の前から静かに消える必要があったのだから、そのジョゼの決断の重さをもっとわかるように、容易には探索不能になるように描いてほしかった。それは、もっと言えばジョゼの自殺(結果的に未遂)(『映画 聲の形』の西宮硝子のように)でもよかったようにも思うが、それがただただちょっとした追跡劇で終わり、しかも偶然坂道で冒頭同様出会うだけというのは、あまりにもご都合主義的である。そして、それが、全体が綺麗に折りたたまれた構造、初デートと最後のデートが海であったり、最初の出会いと最後が坂道でジョゼをキャッチするであったりと意識されているだけに、よりちぐはぐさが増しているように思う。また、『とらドラ!』の、高校生の竜児ですらそうしたのだから、付き合うではなく結婚が結論として妥当だったのではないか。もちろん、この恒夫は母子家庭であり勤労学生でありまた留学のことを考えると、あのラストの時点で恒夫はおよそジョゼを養う資力がない、というあたりがリアルさの淵源であるものの、それは要するに現実の束縛の存在するまま――心の中では、なんだって自由だ(京極夏彦『塗仏の宴 宴の始末』)――であり、引き換えに爽快感を失ったように感じる。

 

***

補論3 『映画 聲の形』がらみではないが、障害及び性愛という観点からの違和感が表明された批評(

名作『ジョゼと虎と魚たち』アニメ版は“純愛推し”だが…消された「性被害」の重み | 文春オンライン

)を発見した。大要、原作にあった①ジョゼ=障害を持つ女性に対する周りの男性の援助の代わりに身体を差し出せと言う描写と、②ジョゼは絵の才能を持ってはなかったという2点が、障害を持つ人を美しく・理想的に・都合よく描きすぎるというかねてからずっと指摘されてきた問題に正面から抵触する、という指摘である。③ジョゼがかわいいルックスであることも加えてもいいかもしれない。商業目的かどうかはともかく、このような問題をおよそクリアできていないことは指摘されてよい。

 

f:id:hukuroulaw2:20201226040604j:plain

 

※同じ目線のくだりと、石油王のくだりを2020.12.26に追記した。

  補論2と3を2020.12.26に追記した。