人文学と法学、それとアニメーション。

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省察の深さへの試金石──『THE BATMAN』覚書

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一見、バットマンは悪者を倒す悪者、ダークヒーローであり、治安最悪のゴッサムシティでは必要悪であるように思われる。

 
しかし「復讐」を名乗り、暴力で暴力を制するそのやり方は、結局より深い闇を生み出す結果しか生まないというのが本作の鋭い指摘ではないだろうか。
 
悪や闇の流出元も問題である。
 
殺害された市長、警察署長、地方検事、マフィアというあからさまな徒党、実の娘すら安易に殺そうとする徒党に同情の余地はない。
 
しかしまたリドラーの連続殺人も許されないとするならば、一体我々はどうすべきなのか。
 
リドラーは孤児であり、その意味で孤児であるウェインやそしてカイルと同じではあった。ただ、ウェインやカイルほど強くはなかった──自分を確立できず(「私は誰だ?」、これはさらにホアキン『ジョーカー』の自我の話にも繋がる)、そして匿名の犯罪組織(徒党)を構築して連続殺人や堤防決壊無差別殺傷、市長候補暗殺(未遂)をすることでしか、自我の創出ができなかった。しかし、もちろんこれはひとりリドラーの、あるいらリドラーたちの責任ではない。
 
同じ孤児だったウェイン、そうではないリドラー。その境遇を決定的に分けたのは親が金持ちだったかどうか、すなわち金があるかどうかである。
 
カイルはウェイン(バットマン)という友?を手に入れられたから、復讐殺人を止めて貰えた。
 
金や友人を持たざる者は──その自我形成とも結びつく発声を、テロの形でなすしかない。
 
昨年ハロウィンのジョーカーのコスプレの男による乗客無差別刺傷事件を引くまでもなく、京アニ放火殺人事件、大阪クリニック放火殺人事件など、最後まで犯人に寄り添っていた「親愛なる隣人」(『スパイダーマンNWH』)に、社会的孤立の故に本来社会全体や国に向くべき憎悪が先鋭化され、向けられる事件が相次いでいるような気がしてならない。導火線に火はついている。それが日本社会全体に向けられるのは、政治腐敗と弱者の切り捨てというゴッサムシティ同様の素地があり、その徴憑たる上記無差別殺傷事件が続き、疫病戦争地震末法の2022年日本においては、そう遠いことではない、というか既に始まっているとすら思われる。
 
本作ラストは、堤防が破壊され、多くの人が死傷したゴッサムシティの「夜明け」で終わる。
 
しかし、それはペンギンら新たな悪の族生の瞬間でもある。
 
それはバットマンが闇から出て、救助活動を日の下で行うことをも意味する。
 
まさにリドラーが求め続けた真実──嘘をつかないことの比喩である。
 
ブルース・ウィリスバットマンは、この反省を踏まえ、どう社会に切り返すのか。
 
透明な社会が作れるか?また、透明な社会において闇のヒーローはどうあれるのか?
 
それが問われている。