周囲の人間に興味がなく、2年生に進級しできた友達モドキやさらには樽見の会話すら頭に入ってこず、そのことについて自身を「薄情」と形容し、樽見と別れたあとに、自分は何者かと悩むしまむら。
そのしまむらをそのまま肯定するのが宇宙=社会共同体のハイパー外部から来た宇宙人ヤシロである。しまむらは社会内部のつまらない、興味のない人間に肯定されたって仕方ないから。
他方でそんな他人にこだわりがないしまむらが、にもかかわらず気になるのが不在の安達。
そして、その安達が、しまむらに友達モドキができて学校に来なくなってから2週間で、しまむらに声を掛けたところで10話は終わる。
10話は各人の立ち位置が明確になる、非常にポイントの回だった。
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「いかにして自分の本心に負担なく自然体で過ごせる関係を作出・維持できるか?」が安達、しまむら二人の(暗黙裡の)課題であろう。
それに合致したのが、学校=社会から脱走し体育館二階卓球場でサボり、出会った二人、だったのである。しまむらが2年に進級し、クラスメイト3人組に興味がなくただ適当に流されるまま退屈な日々を過ごしているその様は、我々の日常、社会生活そのものである。
つまり、最初から孤立した安達よりも、周囲に合わせるのは嫌だが、でもなんとなく孤立ではなく周囲に流される方を選んでしまうしまむらの方にこそ課題達成のウェイトがかかる。
しまむらは、自分自身を「薄情なやつだ」と評価ないし嘲笑するわけだが、しかし、「薄情」こそ「情に棹させば流される」ことを憂いた近代日本文学の旗手の一人・夏目漱石がある種の前提として目指したものではなかったか。
そういう意味で本作は紛れもなく近代(日本)文学の主題に合致し、その延長にあると言えるし、またモノローグ多様の形式もマッチするのである。