人文学と法学、それとアニメーション。

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神話化と再演の映像化――『魔女見習いをさがして』覚書

『魔女見習いをさがして』、かつて『おジャ魔女どれみ』を見ていた3人の女性(ソラ、ミレ、レイカ)が、本家=『おジャ魔女どれみ』を共通の模範パラデイクマ(つまりは未加工の「神話」)としてそれに適宜批判などを加え、再解釈等を施しつつ、「あるべき生き方(ないし人間関係)」を考えていく、という、魔女になら(れ)なかった(ここは現実世界であり『おジャ魔女どれみ』の世界ではないのだから当たり前であるが)、そして大人になってしまった「現実」の「我々」が、現前する問題を(本家の解釈を通じて?)解決して、ちょっぴり前に進むお話である。

 

27歳、22歳、19歳と、本家の見方がリアタイかどうか等で違うと共に、住むところ(東京、愛知、広島)も境遇(両親の離婚等)も仕事(商社、大学生、フリーター)も、それぞれ違う3人が、がそれぞれの人生のステージで抱く異なる課題に協力しつつ向き合い、乗り越えていく……という筋立てで、「魔法」という名の心の声とやる気で3人の夢ーー差し当たりは仕事における、を実現する。

聖地巡礼」は本作は本家を現実の我々が解釈した二次パラデイクマであることを意識させる。

 

また、「旅」=非日常であり、それを「フィクション」=非日常で描くということは、二重の意味で非日常性を備えているといえる。――「理想」を語るには都合がいい空間である。

 

ある人に簡単にできることが別の人には甚だ困難で、逆もまた然り。本家が言う「魔法」はすなわち個々人の個性の謂いだったのだ、とラスト少し手前に八坂神社境内でソラが気づく。もちろんこれはソラの、あるいは3人の解釈であり、これに我々が縛られる必要はないのであるが。。

最初と最後を同じ場所(MAHO堂のモデルになった建物)に合わせるとか、気持ちの前向き/後ろ向き等に合わせて光/影を使う等非常にわかりやすい演出。

 

あと、レイカ広島弁がめちゃくちゃ良い。笑

現実に製作者によって参照されたかどうかはともかく、客観的な文脈あるいは系譜で言えば『空の青さを知る人よ』のもう青春が終わってしまった、魔法使いにはなれ(ら)ず、「現実」と向き合わざるを得ない我々が、かつて見た本家=フィクションからなにがしかを得る物語であると同時に、他方で『リトルウィッチアカデミア』との並列関係――「魔法」とは何か?がチラつく。


SNSを見て裏どりして信用できる人かどうか判断するのではなく、現に接したその様から判断するべきではないか?というソラの批判は、現代的な人間関係のあり方の問題である。だって3人はそんなことせずに年も住む場所も仕事も全て違うのに『おジャ魔女どれみ』を見ていたという一点が大きく作用して裏どりなんかなしにして友達になれたのだから。


(最後に、これは余談であるが、アニメで描かれる白川郷はどう見てもひぐらし雛見沢に見える。笑)