人文学と法学、それとアニメーション。

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最後の一人を守ること、後ろに繋ぐこと、noblesse oblige――『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』評註  

公開2日目にして興行収入23億円という破竹の勢いを示す、同名タイトルのTV版の続編。

 

本作は人を食べる基本的には不死身の鬼たちとそれに対峙する人間、中でも鬼狩りである「鬼殺隊」との戦いを描く物語である。

 

舞台は無限列車に移り、炎柱・煉獄杏寿郎といつもの三人組・炭治郎、伊之助、善逸さらに禰豆子が、下弦の壱・魘夢と対戦する。

 

これはTV版のときからそうだったのではあるが、シリアスパートとギャグパートの落差が激しく、ちょっと感情移入しにくくなる場面もあった。

 

また、煉獄の過去については劇中で描かれるものの、そもそもTV版でもそこまで多く登場していたわけではなく、カタルシスが足りなかった(それこそ富岡義勇が今回の煉獄の位置であれば間違いなくもっと号泣していたに違いないが)。

 

・・・というマイナスポイントはともかく、魘夢、猗窩座の戦闘シーン2つはどちらも圧巻で、特に後者については煉獄と猗窩座のバトルは、少し前のFate/HFのセイバーvsヘラクレス、ライダーvsセイバーを彷彿とさせる凄まじい作画であった。

 

また、シナリオについては原作準拠であり、本編から一貫しているところの、力を持つものは弱きものを守り想いを後に繋げる義務(まさにnoblesse oblige)がある、であるからその義務にはたとえ自身の劣勢が明らかで死ぬことになっても曲げるべきではない、そのために必要な努力はどれだけしても足りない、と明確で力強いメッセージがある。冒頭の産屋敷が墓でかつて亡くなった隊士たちの名前を一人一人呼びながら歩いているシーンで、「人は必ず鬼に勝つ。人の想いは消せないからだ。」と言うのが大変示唆的である。

 

徹底的に追い詰められた弱い、最後の一人を守ることは、現実の世界の課題であり、またあり続けてきたし、これからもずっとそうであろう。それはその意味では見果てぬ夢、叶わぬ夢、なのかもしれない。

 

しかし、最後の一人を守ることが良いことなのであると(紀元前の古代ギリシアで)一たび認識してしまった人類は、もう後には引けないのである。それを追い求めざるを得ないのである。

 

ある種の不老不死を手に入れ、肉体も強化し続けられるいわば最強の個人と化した鬼。その鬼に対処する鬼殺隊側がむしろ徒党を組み、最後の一人を追い詰めている構図にも見える。『桃太郎』のように。

 

しかし、これはそうではなく、鬼殺隊側は徒党ではない連帯なのである。証拠に曖昧性がない。最後の一人を守るために横一列に透明に結束している。

 

対して、最強の個人、最強の個人主義者とも見える鬼はまさに社会連帯から切れたキュークロプスであり、資源をつかみ武装化を図るレンティア国家あるいはアルパゴン、アルセストである。そして、その証拠に、よく見れば、鬼側がむしろ鬼舞辻の絶対的支配のもと、鬼舞辻からもらった血の濃さで上下関係が決定されるという完璧な枝分節体(segmentation)であると認識できる。しかも、劇中で猗窩座が煉獄戦の前に弱った炭治郎から殺そうとしたように、鬼は弱いもの、最後の一人を狙う。

 

この鬼に対し、傷がすぐふさがるわけでも、不老不死でもない人間が圧倒的非力をもって挑戦し続ける、それはあたかも解決不能な社会問題(中でも一番深刻なのはやはり徒党が最後の一人を追い詰める問題)がこれまでも、今も、これからも存在し続ける中で、それでもなお心を折られず、あきらめず、根気よく、そして現世代で無理ならやれるだけのことはやったうえで後代に想いを引き継ぐ。安易に解決できてしまえ、目の前で猗窩座がそれを提案する自身の鬼化を煉獄が峻拒する理由である。鬼はもはや人ではないのである。

 

そういう意味で鬼殺隊と人間の戦いは人間の知的営為・蓄積・戦闘ないしは端的に学問的営為の話でもあるのである。

 

最後の一人が、人間の知的営為が、徒党に乗っ取られた政治システムによって、自助・共助・公助という美しいスローガンや、悪しき前例の打破を名目に、露骨に攻撃されている2020年10月16日は、同作の公開にうってつけだったかもしれない。