人文学と法学、それとアニメーション。

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What's the Real,What's the Problem?――村木数鷹「マキァヴェッリの歴史叙述」国家学会雑誌132巻9・10号(2019)103頁以下についての覚書

 村木数鷹「マキァヴェッリの歴史叙述」国家学会雑誌132巻9・10号(2019)103頁以下は我が国の、そして世界のマキァヴェッリ研究の水準を大きく更新した、画期的な(修士!)論文ということになると考えられる。

 

(もちろん本稿筆者は政治思想史も歴史学もイタリア語も門外漢であるから、その〝雰囲気“がわかるだけ、であるが・・・。)

 

 「現実」とは何か、あなたが「現実」として切り出してくるそれは本当に「現実」か、そういう部分をあいまいにしていては、結局解決すべき「問題」にすら到達できない、そういう懐疑主義的な思考をマキァヴェッリはとっている。

 

 ・・・とまあ、だらだら書く予定ではあったが、結局全体の論旨も細かい叙述も、村木の同論文できわめて精緻かつ非常に練られた文章でまとめてあるため、村木の文章を超える要約なぞ私ごときに作れるわけもないので、気になる向きは是非同論文の原文にあたっていただきたい。

 

 私が気にするのは結論部分だけである。

 マキァヴェッリは154頁で、都市内部での階層を超えた一致「団結」は夢物語にすぎず、「対立」は絶対に解消できない所与=自然であり、ただかかる「対立」を武力衝突、さらにその前提になる徒党形成や結託にしない工夫(fictio)が求められる、とする。

 これ自体はとても腑に落ちる話で、例えば現代日本のいじめ問題でも、達成不可能な理想を掲げる(「いじめゼロ」)と、隠ぺい等により目的が達成されたこととされてしまい、より問題を深めるだけに終わることが多いため、達成不可能な理想を掲げること自体はよいとしても、具体的な施策を実行するには達成可能な現実的な理想(「いじめを減らす」)を掲げる必要がある、ということであろう。

 

 

 問題は、「自然」か「自然でない」かの分水嶺がどこにあるか、である。

 

 

 「そこに残されていたのは、あらゆる都市において貴族と平民との間で自然に存在しているのが常である対立(umori)のみであった」(153頁)、「人間のあるがままの情念に基礎づけられた綿密な論理に従っている以上、これを自然に任せたままでは一向に適切な解決を望み得ない。そのため、人間による努力としての制度が切実に希求される。」(160頁)と繰り返し出てくる「自然」という概念を、マキァヴェッリは、そして村木は、人間の「努力」で現実に達成可能な「制度」で抑え込めるものだと考えている。

 私のようなより懐疑的な(あるいはいじわるなor天邪鬼な)立場からは、果たして「自然」を「努力」や「制度」で抑え込めるというのは、300年間のローマ共和政という歴史的事実があり、かつブルーノなどより遥かに甘くないマキァヴェッリの主張であるということを踏まえてもなお「甘い」のではないか?かかる私の指摘は、156頁の「亡命者の帰還時の武器携帯の有無による対応峻別事例」がマキァヴェッリの「創作」にすぎなかったことからも支持されないか?

 

 あるいは、人類に他にできる可能性のあることはない以上、そこに「賭けている」のかもしれないが。

 

 いずれにせよ、これが修士論文ということが信じられない。

 西洋政治思想史に興味がある人間は、読んで損はない、否、絶対に読むべき論文であるといえよう。

※「対立」の維持と「政治機構」による解決、それを維持しているのがアメリカなのかもしれない。バーネット判決およびこのブログの「自粛要請の位相」参照。「対立」の維持はおそらく「内なる他者」を認めることであり、尊重する訓練であり、これは「都市」ないし「国家」内部の「他者」ひいては「個々人の精神」内部の「他者」と上手に付き合う、ことに繋がるのかもしれない。さらに、我が国で公共事業での競争入札がうまく回らない原因も、この「他者」不在、「対立」訓練不足にあるのかもしれない。