人文学と法学、それとアニメーション。

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続・読んでいない論文について堂々と語る方法?―岡野誠樹「憲法-訴訟-法――違憲審査と訴訟構造の交錯――」国家学会雑誌133巻1・2号69頁以下

1 バイヤールの真意

 

 本記事のタイトルは無論、ピエール・バイヤール〔大浦康介訳〕『読んでいない本について堂々と語る方法』(筑摩書房、2008)からである。

 

 バイヤールの主張は(明示はされていないものの)実は大きく2つに分けられるように思われる。

 

 ①コンテクストがなくても問題ない(ある小説家によく似た芸人がまちがって小説家のファンイベントに迷い込み、ファンからの質問によくわからないまま答えていたらファンたちは一々深い意味を読んで勝手に納得しているという説話)

 

 ②コンテクストがないとわからない(自分の頭の中の図書館のどこに入れるべき本であるかがわかる)

 

 である。

 

 ①について。あるとき私の専門の話について、その話をおよそわからない友人に話していたとき、その友人はもちろん内容はわからないのであるが、相槌をうってくれたり、おうむ返しをしてくれたりした。これは、あまり役に立たないようでいて、実はかなり自分の考えをまとめるに際して役に立つのである。そういうことが可能であるということを教えてくれた友人に感謝である。

 

 また、その友人は、単に相槌をうったり、おうむ返しをするだけでなく、一般常識の見地から、あるいはその友人の専門分野の知見から短いコメントもくれ、これもとてもありがたいのである。

 

 自分も他の友人の専門分野で自分がおよそわからない話を聞くときは、上のような点に気を付けている(その方が話を聞いていて楽しいしね!)。

 

 ちなみに、アメリカで人気のTVドラマシリーズ『ドクターハウス』で、ハウスは天才ではあるが、一人ではなかなか病気を見つけられず、やはりハウスには劣るものの3人の部下やウィルソン・カッディとの毒のある、しかしゆえに本気の会話ないし議論が必要であることが描かれる。

 

 ひらめくためには議論が必要。

 

 ②について。これは多言はいらないだろう。本や論文は文字で書かれた文章であるから、常にparadigmatiqueとsyntagmatiqueの網の目の上に配置されている。

 

 そして、特に学術論文は先行研究を引用するのが必須であるから、ますますコンテクストを把握しやすい。

 本稿のタイトルは、この②の観点から岡野論文を読まないで岡野論文を読んでみた、ということである。

 

2 岡野論文の良さ

(1)問題提起:なぜ岡野論文は勝利が約束されているといえるのか?

 第二部の第三~五章で「連邦民訴規則」「サマリー・ジャッジメント」「クラス・アクション」というおよそ(比較)憲法(学)の論文とは思えない、いやそれは民訴では?というメニューが並ぶ。まずはこのおかしさに気づけるかである。

 

「以上のような新しいジャンルの政治的決定、新しいジャンルの裁判、は今日テクニカルに民事裁判そして(非訟事件手続との対比において)民事訴訟と呼ばれるものに他ならない。」

               (木庭顕『ローマ法案内』(羽鳥書店、2010)61頁)

 

「法律制度の民主性という意味をふえんすれば、次の通りである。すなわち、民主主義はもちろん単に政治制度の問題であるだけでなく、人々のものの考え方の問題でもある。国民が、法のエンフォースメントを治者の仕事と見做して傍観せずに、裁判を通じて自らの権利を主張し、それを通じて法のエンフォースメントの一翼をになおうとすることは、民主主義の欠くべからざる一つの基盤であろう。したがって法の実現における私人の役割を軽視することは、いわば「お上任せ」の考え方を温存・助長するものであって、人々の意識の民主化に対するマイナスとなる。そうだとすれば、国民の権利主張、それを通じて私人が法の実現のために果たそうとする積極的役割を歓迎し、それを容易にするのが、民主的な法のあり方ではないかと考えられるのである。」

(田中英夫=竹内昭夫『法の実現における私人の役割』(東京大学出版会、1987)176-177頁)

 

要するに、デモクラシーは「単に政治制度の問題であるだけでなく、人々のものの考え方の問題でも[1]ある」のであり、民事法そのなかでも肝になる民事訴訟手続がきちんと動き、個人が占有を保障されつつ政治参加できる社会がデモクラシーの浸透した社会である。

 であれば、生命線は民事訴訟法であり、連邦民訴規則、サマリー・ジャッジメント、クラス・アクションといった諸制度が「民事訴訟法」の問題を超えた「憲法」の、さらには「社会実践としてのデモクラシー」のラインまでが見える、わけである。

 民主主義が比較的上手くいっているとされ、トクヴィルの観察によれば、そして樋口陽一のモデル化した図式に従えば、フランス流人工芝とは違い、雑草をダイナミックにワイルドに巧みに取り込んでいくアメリカ流国家社会に比較憲法の範を採るのは、十分理解可能な選択である。

 政治的決定は限られたエリートの行うもの(「政治」)ではなく、領域の一人一人が行うもの(「デモクラシー」)。たった一人が嫌だと言い人権主張が認められれば、何年もの時間、何千万ものお金、何人もの関係者がかかわってようやくできた法律が無効に、0にされるラディカルなシステムが、違憲審査制なのである。

 「政治的決定」は特定の階層の人間だけによって行われるべきではない、皆で行われるべきである、というのが「デモクラシー」である。サラミスの海戦の勝利要員は下々の兵士までもがしっかりと一人ひとり作戦を理解していたからである[2]。2020年4月16日、またもや十分な説明を欠いたまま全国に緊急事態宣言を行った日本政府の不透明な決定と真逆である。

 

(2)法の実現における私人の役割

 以上のパースベクティブに立った際に、既に引用した田中英夫=竹内昭夫『法の実現における私人の役割』(東京大学出版会、1987)は先行研究として絶対に外せないところであろうし、(一)では未登場であるものの、これだけの図式を提示する岡野が落とすことはありえないので、いずれ論文中で引用されるであろう。

 この『法の実現における私人の役割』の対談パートにおいて、竹内は以下のように言う。

 

「この論文を書くときに底にあった基本的な観点は、われわれ日本人は法律意識が低いとか権利意識が低いとかいわれます。そういう見方もできるかもしれないが、われわれ日本人にもまともな経済感覚があるからだという面もあるのではないか。損をして無駄な訴訟などしないというのはごく普通の経済感覚ではないか。では、アメリカではどうか。アメリカ人にも、もちろん経済感覚はある。同じまともな経済感覚のある人間なのに、アメリカで多くの訴訟をやるのは、訴訟をすることが経済的に引き合う法律制度になっているのに対して、わが国では引き合わない制度になっているからではないか。割の合わない制度にしておいて、日本人の権利意識を云々するのは的はずれだし、失礼な話ではないか。そういう気持ちであったように思います。」

(同180—181頁〔竹内発言〕)

 

この本の中には、アメリカにおける証券、独禁、消費者etc.の「金にならない」「インセンティブの低い」法的紛争について、私人による請求がひいては公益実現にもつながるという観点から、行政庁のアミカスキュリーとしての訴訟参加、代表訴訟やクラス・アクション、懲罰的損害賠償請求、二倍賠償、三倍賠償請求、立証責任の転換といった形で、いかに経済的に釣り合うものになるかといった観点から工夫を凝らし、私人の提訴をエンカレッジする仕組みが多いことが描かれる。

私人が公的主体と競合しながら社会を作る(デモクラシーが実現されている社会、動態的・実践的な民主主義)とはこういう社会かと思い知らされる。

 そして、翻って日本の司法制度改革が「失敗」(と一応言っておく)した、つまり弁護士が増えたはよいものの仕事は増えず、食えない(特に若手)弁護士が増えた理由も、要するにこのアメリカの単に人口当たりの弁護士数をまねただけであって、このような良い意味での「訴訟社会」、つまりデモクラシーを実現することを目指し、そのために種々の工夫を凝らし、「経済的に引き合う」よう作られた種々の制度[3]の方はまねなかったからであろう。

 ちなみに、「公法」は「民事訴訟という形態の使用をデモクラシーのための方便として」[4]使うものであり、むしろ公法の原型が民事訴訟にあることを踏まえると、「法の実現における私人の役割」があるのは当然に思えてくる。

 また、アメリカ議会が私益の殴り合いである利益多元主義(プリュラリズム)を採用しているのもこのあたりにあるのだろうと推察される(日本の政治過程を利益多元主義で理解し、経済的自由規制立法の違憲審査における規制目的二分論を擁護する長谷部説は、結局利益多元主義ではなくコンフォルミズムである日本の議会に対しては適用の前提を欠くであろう。)。

 

(3)結論

 なぜ岡野論文は勝利が約束されているといえるのか?

 その答えはもう明らかである。

 それはタイトルと目次と引用文献から、民事法=古代ローマ流デモクラシーが浸透した社会をいかに実現するか?の大テーマ(「法のパースペクティブ」。これは東京大学法科大学院で木庭顕が担当していた科目名でもある。)を軸にして、アメリカの訴訟社会の分析を連邦最高裁判決の違憲判決のテクスト群とそこに至りうる市民の司法利用による社会形成(連邦民訴規則、サマリー・ジャッジメント、クラス・アクション)に繋げていることが概ね予測できるからである。

 

3 今後の展開――ネタバレ(?)

「木庭 私のように理解すると人権とデモクラシーの衝突という問題が見えなくなるというのは痛いところを突かれました。確かにこの問題はその先に現れます。デモクラシーがポピュリズムや衆愚政に陥るという批判は、やや短絡で、むしろ政治そのものの基盤を分析すべきケースが多いと思いますが、人権との衝突、つまり自己撞着はデモクラシーに固有の病理に属すると思います。トックヴィルを持ち出すまでもないでしょう。集団に抑圧された個人を守るため政治システムに対抗的に人々が連帯するという動機は、その連帯自身が集団として個人を抑圧するという暗転に向かう傾向を有します。その場合にはその連帯は政治的決定の傘を着ます。なおかつ、デモクラシーが多元主義的硬化症に陥っている場合が多いと考えられます。東大法学部に今年提出されたばかりの或る助教論文は現代アメリカにおけるこの病理を見事に分析して私に教えてくれました。

 連帯の暗転はエウリピデスが執拗に追求したテーマでした。今なお極めてアクチュアルです。ソフォクレスが最も取るに足らない個人をアプリオリに尊重するのでなければ真の連帯は成り立たない、と連帯の質そのものを追求したのに対して、エウリピデスは、あらゆる連帯に対し個人が掛替えのないものを親密に保持し介入を許さないという原理こそが基底的であるべきだと主張しました。」

(蟻川恒正=木庭顕=樋口陽一憲法の土壌を培養する」法律時報90巻5号67頁〔木庭発言〕)

 

[1] 社会(あるいは制度)と個人の(意識)関係を論じる際にいつも出てくるにわとり・たまご問題である。

[2]木庭顕『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』(勁草書房、2017)23頁。

[3] 制度と意識は再帰的関係にあるのは注1)で既述のとおり。

[4] 木庭・前掲注2)67頁脚注⑯。