人文学と法学、それとアニメーション。

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メタ倫理学者はいらない?――『PSYCHO-PASS 3 FIRST INSPECTOR』評註

  本作は『PSYCHO-PASS』シリーズの主題からは少々離れた話、ということでいいのだろう。

(もちろん朱が推薦するだけあって灼は主題を捉える。すなわち、TV版『PSYCHO-PASS3』でも同じ台詞が出てきたが、ドミネーターの唯一好きなところは、引き金がついているところ、すなわち、何に向けて引き金を引くかを人間に委ねている点である、という台詞が再度映画でも登場する。)

 

 梓澤が欲したものは、金でも名誉でも人間関係でもなく、自身がシビュラ=神(あるいは、「この世で唯一見ることのできる神」であれば、それは「キリスト」ということになろうか)になること、であった。

 

 梓澤は確かに頭が良い。おおむねシビュラの正体もつかんでいた。暇で頭の良い人間がやることは、世界の真理の探究というゲームであり、世界の支配者(もしいるならば神)になることである。

 

 梓澤は、自身の読書や持ち前の洞察力で神=シビュラと同じ地位に立てたと、シビュラは自分をメンバーに迎え入れるのが適切であると自負していた。

 

 だからこそ「俺は人が真にシビュラ的かどうか試しているだけだ」という台詞が出てくる。

 

 しかし、梓澤には2点致命傷があった。1つは、灼が哀れみの感情をも伴って梓澤への勝利を確信したように、シビュラを目指した時点で梓澤の負けであったこと、すなわち免罪体質という生まれつきの資質が欠けていたことである。2つ目は、これは免罪体質者ではないという点とも繋がるが、灼が「シビュラは人が生きる上での指針だ。ゲームのルールなんかじゃない」と指摘し、また梓澤の「生命か色相かを選ばせる」分岐を設定するという行いをシビュラが「ただの独善」と断じたように、結局シビュラの考え方には到達していなかったという点である(そして、灼は到達しているのである)。

 

 結局、資質を持った審判者=シビュラを構成する脳たち以外は、プレイヤーになるほかないということこそが帰結なのであって、そこもを読み切り、かつ「不自由のもとにおける自由こそが人生」であるとしてシビュラの判断に嬉々として従う法班静火(そして、法班はシビュラのバックアップシステムのビフロストにおいてコングレスマンという”プレイヤー”であった)こそが免罪体質でないにも関わらず、そしてビフロストという全体として反シビュラ的なゲームをプレイしていたにもかかわらず生き残るその理由である。

 

 1期の主題であったシビュラシステムとの対決自体は未だ持ち越し状態なので、早く先の展開が観たい。