人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

「自粛要請」の位相

1 「自粛要請」の日本社会――日本社会の平常運転

 2020年2月頃から開始した今般のコロナ禍とそれに対する政府(日本国及び各都道府県含む)対応の際に「自粛要請」なる珍妙な言葉が繰り返し発出されている。

 「外出しないよう要請」なら理解できる。しかし、「自粛要請」はやはり「自粛」という言葉の使い方、すなわち「自分から進んで自己の言動を慎むこと」として誤りだろう[1]。かかる違和感を違和感として感受せずこのようなワーディングとして発出する政府と、それをそのままメディアで流すマスコミと、それを違和感なく受け取る国民と。この違和感の不在の根幹には、謝罪広告事件[2]エホバの証人剣道拒否事件[3]君が代ピアノ伴奏拒否事件[4]君が代起立斉唱拒否事件[5]の各最高裁判決において、最高裁がそう認識する、「自発性」が本質的に備わる行為であったとしても公共の福祉があれば強制できるという社会通念がある。

 憲法学者の佐々木弘通はコンメンタールで以下のように指摘している。

 

 自発的行為は、強制されると、自発性に基づくという当該行為の本質的意味を破壊されてしまう。強制から自発的行為を保護することは、当該行為の本質的意味を守るという点ではその行為を保護するが、そこで守られるのがまさに自発性だという点では自発性という内面的な精神作用を保護するのである。つまりここでは、行為を保護することが即ち内心を保護することである。大多数の場合には「○○の自由」の保障・制約と同時に、その影に隠れる形で、保障されたり制約されたりする自発性という内心の精神作用が、ごく稀に光の中に現れるのが、自発的行為の保障が問題となる場面である。この問題場面で自発的行為の強制を認めることは、何を意味するか。それは、ほかの場面で人の自発性が尊重されるのは単なる偶然であり、本当にはこの日本社会が、人の内心における自発性という精神作用を尊重していないことを意味する。[6]

 

 つまり、なんのことはなく、安倍政権が「仕上げ」なのか「たまたま外れ値」なのかはともかく、言葉による約束を、そして個人の意思(自発性)を重視しない日本社会の基本線はもうずっと前から存在している。「強制はする、しかし、自発的にやった体にせよ」[7]ということを最高裁からして是認しているわけで、面従腹背が恒常化している社会において、信頼も信用もあったものではない、ということである。

 この「強制はする、しかし、自発的にやった体にせよ」という観念があまりにも社会に浸透しているから、「自粛要請」に違和感が生じることなく、意味が通じてしまうのである。

 ちなみに、職階上の上司が部下に言う「ここはのんでくれ。悪いようにはしないから。」も同じである。これが亢進し内面化されると上司に飲みに誘われて行きたくないのに「嬉しいです!行きます!」と返事をするようになる。いわゆる忖度である。

 以上から、「自粛要請」は非難されるべきものであるが、これはコロナ緊急時だから、というわけではなく、完全に日常の日本社会の延長にある語用がたまたま緊急時に際立っているだけである。

 そして、ここまで掘り下げると、「自粛要請」というワーディングに違和感が生じないことと、近畿財務局の赤木さんの自殺の問題とは同根から出ているということが理解できる。そして、まさに同根なんだから赤木さんの自殺に繋がった一連の改竄問題について、今、このタイミングで批判される必要がある[8]

 「今はコロナ対策に集中すべきで、赤木さんの自殺問題を国会で扱う野党は政局にして足を引っ張っている」という主張も散見されるが、そうではないのである。

 

2 同調圧力と萎縮効果

 政府の自粛要請に従わなかったことを理由に処罰されたり、行政処分されたりしたらこれは(罪刑法定主義、法律の留保原則に違反するから)基本的には違法だろうが、他方で私人相互での批判を直ちに違法にする訳ではない。

 ただし自粛要請という形で政府が私人の同調圧力を利用して事実上政府目的を強制する手段は問題が多く違法になる場合もあると思われる。

 特に、1で述べたように、個人の自発性を軽視し剰え憎み、上意下達を望む社会においてはかかる同調圧力はより逆らい難いものとして感じられるはずである。

 この問題は表現の自由における萎縮効果論と同型の問題で、ウォーレンコート時代には黒人団体の名簿の公開強制や議会での共産党員でないことの宣誓強制などが結社の自由に対する萎縮効果があり修正1条により違憲・無効にされた。不人気な思想、集団、性向を公開させることは偏見を持つ市民からの差別や暴行を誘発しかねず、ただでさえインセンティブが低いにもかかわらず民主政と専政を区別する有力なメルクマール(の一つ)である表現の自由の保障のもとで活性されるべき表現活動を萎縮させるからである[9]

 同様に[10]、自粛要請に従わないことはとにかく異質な分子を見つけて敵認定し、対する見方の我々は大丈夫という形で安心したい[11]市民からの差別や暴行を誘発しかねず、それを見越すから萎縮(自粛)し、結果外出しないという政府目的が達成できてしまう。

 

3 とはいえ外出するのもね?――ジョゼフ・ラズが意味しないこと

 では「政府権威が作り出す同調圧力に屈しないぞ!」とばかりに花見に、夜の街に繰り出せばよいのだろうか。それもちょっと違う気がする。

 ジョゼフ・ラズによれば、権威たる政府の命令に人々が従うべきなのは、①政府の命令に関わりなくそうすべき独立の理由が名宛人にあり、②各人がそれぞれ独自に上記理由に合致した行動を取ろうとするよりも政府の命令に従った方がよりよく合致した行動をとることができる蓋然性がある、場合である[12]

 そうであれば、政府から市民に対する「外出自粛要請」、同じく政府から興行主や飲食店等に対する「営業自粛要請」について、外出をしないことについてそうすべき理由があるならば、不要不急の外出はすべきではない。社会的同調圧力を利用する政府活動は許されるべきではないが、それと市民各人の外出が正しいかは別問題である。

 そして、今回は遅くとも3月23日以降の東京では政府の自粛要請があろうがなかろうが、市民として感染拡大防止のために不要不急の外出を控える合理的理由があったといえよう。にもかかわらず、政府命令に従いたくないからという理由だけで不要不急の外出をしたならば、これは批判されて然るべきである。

 「社会的同調圧力を利用する政府命令には従いたくないから従わない」という理由に基づく外出は、政府活動に対する批判の観点からは理解できるが、政府権威と独立した外出を控えることによる感染拡大防止という独自の合理的理由がある以上、独自の合理的理由を無視するものであり不合理である。

 市民が不要不急の外出する/しないの判断にあたっては、政府権威と独立した合理的理由の有無まで考慮して最終結論を出す必要があるのに、政府権威の不当(ないし違法)な手段による事実上の強制だからということのみを理由として「外出する」を選ぶのは、当然、思慮が足りないという批判を受けるだろう[13]

 

4 補論:自粛と補償はセット?

 個人的には現行日本実定法制度を前提に考えると、「自粛」と「補償」は「セット」ではないように思われる。損失補償請求権(憲法29条3項、直接効力説)も国家賠償請求権(国家賠償法1条1項)も要件を満たさないように思われる[14]

 ありうるルートは、金銭給付を国家賠償・損失補償といった、(講学上の分類たる)行政救済法上の制度として考えるのではなく、行政作用法上の行政目的達成手段への誘導のための金銭給付[15]と法的構成がなされるべきように感じる。(なお、現に東京都の小池百合子知事が打ち出した営業を取りやめた事業者に対する金銭給付は「協力金」であり、かかる構成であると考えられる)。

 

[1] もっとも、これは「中動態ではないか?」という指摘もなされており、また他人から何か働きかけを受けた上で自分で考えて決断することは日常茶飯事ではあるため、単に「自粛要請」という語義自体が誤りだと直ちには言えず、もう少し踏み込んだ検討が必要な気もしているところである。なお、中動態については國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院、2017)参照。

[2] 最大判昭和31年7月4日民集10巻7号785頁。

[3] 最判平成8年3月8日民集50巻3号469頁。

[4] 最判平成19年2月27日民集61巻1号291頁。

[5] 最判平成23年5月30日民集65巻4号1780頁ほか。

[6] 芹沢斉ほか編『新基本法コンメンタール 憲法』(日本評論社、2011)155—156頁〔佐々木弘通〕。

[7] このあたりについてはフーコーの規律型権力の話を避けては通れないところであるが、本稿では触れない。

[8] 「愛国的儀式が強制的慣例でなく自発的で自然なものになれば、愛国心は育たない、と信ずることは、わが国の制度が自由な精神に訴えるということを不当に評価をすることである。われわれは、時折の風変わりな行為や異常な態度を犠牲にした異例な人々のおかげで、知的な個人主義と豊かな文化的多様性を持つことができる。われわれが本件で扱う人々のように、彼らが他人や国家に害を及ぼさない場合には、その代償はそんなに大きいものではない。しかし、意見を異にする自由はどうでもよいことに限られない。そうであれば、名ばかりの自由にすぎなくなる。自由の実質の基準は、現存の秩序の核心にふれる問題について意見を異にする権利である。」(West Virginia State Board of Education v. Barnette, 319 U.S. 624 (1943)。翻訳の引用はhttp://kohoken.chobi.net/cgi-bin/folio.cgi?index=cnt&query=/lib/khk195a2.htm〔2020年4月12日最終閲覧〕から)。

[9] 毛利透『表現の自由 その公共性ともろさについて』(有斐閣、2008)第3、4章。

[10] もっとも、今回は営業自粛や外出自粛といった経済的自由、移動の自由つまりは憲法21条1項ではなく22条1項の問題であり、二重の基準のもとで萎縮が特に除去されるべき表現活動とは異なるから、「同じ」とは言えないかもしれない。しかし、移動の自由は精神的自由でもあることは通説であるから、経済的自由について萎縮効果を(何らかの方向で法解釈を規律するものとして)語るのは難しいにしても、なお移動の自由については見込みがあるのではないか。今回の自粛とは少し離れるが、現に2020年4月9日の報道では、地方選挙を延期すべきではないかという声が連立与党の公明党から出てきたそうである(自民党は「選挙は民主主義の根幹」として否定したそうだが、どうなるかは不明である)。https://www.asahi.com/articles/ASN496TZKN49UTFK00J.html〔2020年4月12日〕最終閲覧〕。

[11] 疫病と差別の問題についても、既に医療従事者やその家族への利用拒否や病院への物品納入の拒否が現に生じており、論じるべきことが多くあるが、本稿ではそこまで手が回らないので、別の機会に扱いたい。差し当たりマーサ・ヌスバウム河野哲也監訳〕『感情と法 現代アメリカ社会の政治的リベラリズム』(慶應義塾大学出版会、2010)第2、3章参照。

[12] J.Raz,The Morarity of Freedom(Clarendon Press,1986)及び長谷部恭男『比較不能な価値の迷路 リベラル・デモクラシーの憲法理論』(東京大学出版会、2000)第1章。

[13] 他方で君が代ピアノ伴奏拒否訴訟最高裁判決(最判平成19年2月27日民集61巻1号291頁)における藤田宙靖反対意見が鋭く指摘するように(「本件において問題とされるべき上告人の「思想及び良心」としては、このように「『君が代』が果たしてきた役割に対する否定的評価という歴史観ないし世界観それ自体」もさることながら、それに加えて更に、「『君が代』の斉唱をめぐり、学校の入学式のような公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、また、このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」といった側面が含まれている可能性があるのであり、また、後者の側面こそが、本件では重要なのではないかと考える。」)同事件での真の問題はまさにさほど重要でない儀礼について本来の意味での軍事的規律――集団行動の強制さらには権威への忠誠を要求しようとした点にあると考えられる。ここでは、コロナ対策とは異なり対抗利益が儀礼的・慣習的な利益であって、集団行動への強制や権威への忠誠要求への抵抗が幅広く認められてしかるべきである。

[14] 国家賠償では「違法性」要件が、損失補償では「強制」性要件、「個別性」要素、「規制目的」要素の不充足ないし結論への消極的効果が問題になりうるように思われる。

[15] 小早川光郎行政法上』(弘文堂、1999)231—233頁。