人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

最大判令和3年2月24日裁判所ウェブサイト(沖縄孔子廟違憲訴訟最高裁判決)覚書

これは、先日出された最大判令和3年2月24日裁判所ウェブサイト(沖縄孔子廟違憲訴訟最高裁判決。以下「本判決」という。)に対する覚書である。

 

(※なお「覚書」という形で明示的に保険をかけているように、今後大幅に考え方が変わる可能性がある。ただし、加筆・修正を行う場合にはその旨明記する。)

 

1 政教分離原則の今日

 政教分離原則について、我が国最高裁は、津地鎮祭事件(最大判昭和52年7月13日民集31巻4号533頁)以降、愛媛玉串料事件(最大判平成9年4月2日民集51巻4号1673頁)をはじめ、基本的に以下の理解を示してきた(以下は愛媛玉串料訴訟最高裁判決より引用)。

 

憲法は、20条1項後段、3項、89条において、いわゆる政教分離の原則に基 づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けている。」

「一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされているところ、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によって異なるものがある。」

憲法は、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き右のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである。元来、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。これらの点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるに当たり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。」

「しかしながら、元来、政教分離規定は、いわゆる制度的保障の規定であって、信教の自由そのものを直接保障するものではなく国家と宗教との分離を制度として保障することにより、間接的に信教の自由の保障を確保しようとするものである。そして、国家が社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するに当たって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れることはできないから、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。さらにまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れない。これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があるしとを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いを持たざるを得ないこ とを前提とした上で、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが問題とならざるを得ないのである。右のような見地から考えると、憲法政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いを持つことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」

 

このような「政教分離規定」を嚮導する「政教分離原則」の理解を前提に、憲法20条3項や89条などの個別条文の解釈にかかる理解を反映させ、いわゆる目的効果基準を導くのである。(井上典之「政教分離規定の憲法判断の枠組み 空知太神社訴訟[最高裁平成22.1.20判決]」論究ジュリスト1号125—131頁(2012年)参照)

 

 いわく、「右の政教分離原則の意義に照らすと、憲法20条3項にいう宗教的活動とは、お よそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いを持つすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。そして、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するに当たっては、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、当該行為の行われる場所、当該行為に対する一般人の宗教的評価、当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、当該行為の一般人に与える効果、影響等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない。」

 

憲法89条が禁止している公金その他の公の財産を宗教上の組織又は団体の使用、便益又は維持のために支出すること又はその利用に供することというのも、前記の政教分離原則の意義に照らして、公金支出行為等における国家と宗教とのかかわり合いが前記の相当とされる限度を超えるものをいうものと解すべきであり、これに該当するかどうかを検討するに当たっては、前記と同様の基準によって判断しなければならない。」

 

※なお、近時の(といってももう10年以上前であるが・・・)政教分離に絡む違憲判決である、空知太神社事件(最大判平成22年1月20日民集64巻1号1頁)、冨平神社事件(最大判平成22年1月20日民集64巻1号128頁)では、解釈原理としての「政教分離原則」を導いたうえでそれを指針として89条の解釈をしているわけではなく、89条の内部の解釈として「我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるもの」云々といった上位規範を出している。

 

 これは、本判決で国家神道部分を除き、端的にまとめられている。

憲法は、20条1項後段、3項、89条において、いわゆる政教分離の原則に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けているところ、一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。そして、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結び付きをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。しかしながら、国家と宗教との関わり合いには種々の形態があり、およそ国家が宗教との一切の関係を持つことが許されないというものではなく、政教分離規定は、その関わり合いが我が国の社会的、文化的諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に、これを許さないとするものであると解される。」

 

 しかし、本判決は上記の規範に続けて、以下のように述べる。

「そして、国又は地方公共団体が、国公有地上にある施設の敷地の使用料の免除をする場合においては、当該施設の性格や当該免除をすることとした経緯等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところであり、例えば、一般的には宗教的施設としての性格を有する施設であっても、同時に歴史的、文化財的な建造物として保護の対象となるものであったり、観光資源、国際親善、地域の親睦の場などといった他の意義を有していたりすることも少なくなく、それらの文化的あるいは社会的な価値や意義に着目して当該免除がされる場合もあり得る。これらの事情のいかんは、当該免除が、一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから、政教分離原則との関係を考えるに当たっても、重要な考慮要素とされるべきものといえる。そうすると、当該免除が、前記諸条件に照らし、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて、政教分離規定に違反するか否かを判断するに当たっては、当該施設の性格、当該免除をすることとした経緯、当該免除に伴う当該国公有地の無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」(※アンダーラインは本稿筆者)

 

 これは、空知太神社事件最高裁判決の下位規範部分と似ている。

 いわく、「国又は地方公共団体が国公有地を無償で宗教的施設の敷地としての用に供する行為は、一般的には、当該宗教的施設を設置する宗教団体等に対する便宜の供与として、憲法89条との抵触が問題となる行為であるといわなければならない。もっとも、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されているといっても、当該施設の性格や来歴、無償提供に至る経緯、利用の態様等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところである。例えば、一般的には宗教的施設としての性格を有する施設であっても、同時に歴史的、文化財的な建造物として保護の対象となるものであったり、観光資源、国際親善、地域の親睦の場などといった他の意義を有していたりすることも少なくなく、それらの文化的あるいは社会的な価値や意義に着目して当該施設が国公有地に設置されている場合もあり得よう。また、我が国においては、明治初期以来、一定の社寺領を国等に上知(上地)させ、官有地に編入し、又は寄附により受け入れるなどの施策が広く採られたこともあって、国公有地が無償で社寺等の敷地として供される事例が多数生じた。このような事例については、戦後、国有地につき「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭和22年法律第53号)が公布され、公有地についても同法と同様に譲与等の処分をすべきものとする内務文部次官通牒が発出された上、これらによる譲与の申請期間が経過した後も、譲与、売払い、貸付け等の措置が講じられてきたが、それにもかかわらず、現在に至っても、なおそのような措置を講ずることができないまま社寺等の敷地となっている国公有地が相当数残存していることがうかがわれるところである。これらの事情のいかんは、当該利用提供行為が、一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから、政教分離原則との関係を考えるに当たっても、重要な考慮要素とされるべきものといえよう。」

「そうすると、国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が、前記の見地から、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては、当該宗教的施設の性格、当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯、当該無償提供の態様、これらに対する一般人の評価等、諸般の事情を考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。」(※アンダーラインは本稿筆者)

 

 以上を踏まえると、本判決は、従来の津地鎮祭、愛媛玉串(目的効果基準)、空知太(総合考慮型)、冨平(総合考慮型)の判例法理の上に乗っかり、かつ公有地無償供与事案(使用料免除も実質的に見れば無償供与)であるという特徴の共通性から空知太系列の総合考慮型規範をそのままあてはめただけの退屈な判決である、という理解になりそうである。

 

2 法廷意見に対する批判

 しかし、そうであれば、89条で処理するべき事案であったのではないか。

 ところが、本判決で本件免除の違憲性を導いた条文は20条3項である。

 20条3項といえば愛媛玉串の目的効果基準の系譜のはずである。

なぜ、公有地無償供与事案である本件において、総合考慮型規範が用いられているのに、20条3項違反という結論になるのか。

 おそらくはこういう思考過程であろう。

 すなわち、事案としては公有地無償供与事案と実質的に同視できる使用料免除事案であるから、規範としては総合考慮型規範を使いたい。しかし他方で、89条ひいては20条1項後段は国教分離といった、国と宗教が一体化していた際の清算の特殊ケース(空知太神社事件最高裁判決の引用部分で社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律が出てくるくだりはこのことの指摘である。)でしか使えない(参照、林知更「「国家教会法」と「宗教憲法」の間――政教分離に関する若干の整理」ジュリ1400号83頁以下(2010年))。

 本判決の「当初の至聖廟等及びその敷地は、明治12年に沖縄県が設置された後、社寺に類する施設として国有とされ、その後、請願を受けて同35年に当時の那覇区に返還され、大正4年に参加人の前身である社団法人久米崇聖会(以下、参加人と区別することなく、「参加人」という。)に譲与された。」という部分は、空知太神社事件の経緯に出てくる明治政府による寺社境内地国有化との類似性を直感させる。しかし、これは17世紀に建てられた「当初の至聖廟」の話であり、第二次世界大戦で焼失しており、現在問題になっている至聖廟(本件施設)は、平成25年4月に都市公園内に新築されたものであるから、国教分離のための因縁は切れているというほかない。

 そこで、根拠条文だけは89条(と20条1項後段)から20条3項に変えざるをえないため、現に20条3項に変更した。

 しかし、総合考慮型規範は空知太神社事件最高裁判決が使ったように、国教分離事案=89条とセットだったのではないか。勝手に分解してよかったのか、疑問が残る。

 

3 法廷意見の前提とする判例法理の一般定式に対する批判

 また、そもそも政教分離原則についての、津地鎮祭事件最高裁判決以来の最高裁の理解が滅茶苦茶であるというより根本的な問題もある。

 すなわち、政教分離原則は「信教の自由」の保障のために設けられたものではなく、宗教団体のカルト化防止、領域での徒党形成防止のために設けられた規定であり、その意味では「信教の自由」ではなく個人の根源的「自由」の保障のために設けられた規定である。

(※なお、アメリカでは宗教「団体」も多元主義の影響で野生化しているが、木庭・後述によれば、これは別に正当な形ではなく、ホッブズを逃れアメリカに流出した分子の逸脱形態ではないか等と指摘される。)

 また、政教分離原則違反になるかどうかを「我が国の文化的、社会的諸条件」「社会通念」によって判断するというのも滅茶苦茶である。それでは日本社会における鈍感な宗教的多数者の専制になってしまい意味がない(以上につき木庭顕『笑うケースメソッドⅡ 現代日本公法の基礎を問う』106頁以下(勁草書房、2017年))。

 文明社会(?)から憲法典の上澄みだけを移植してありがたがっている部族社会日本において、政教分離規定の趣旨が誰一人わからず、剰え最高裁判事や調査官すら含めてまたぞろ意味がよく理解できず、「よくわからないですが部族には部族の掟があるので掟に従います!」と宣ってるようにしか見えない。

 そうではなくて、政教分離原則は、「非支配または非従属……として理解された、平等の理念」(マーサ・ヌスバウム河野哲也監訳〕『良心の自由 アメリカの宗教的平等の伝統』(慶応義塾大学出版会、2011年)32頁)のために存在する規定であり、反コンフォルミズムのための規定なのである。

 

4 「釋奠祭禮」の習俗化論

 本件における「釋奠祭禮」の評価としては、林景一反対意見が以下に見るように精確に指摘するとおり、外観こそいかにも宗教チックであるものの、実質はもはや習俗化した儀礼であったと評価するのが正しかったように思われる。

 法廷意見はやたら「霊」という言葉を使うが、これは空疎であろう。

 

(久米崇聖会は)「久米三十六姓の末えいの血縁集団の連合体として、戦後の歴史・社会状況の変化の中で、他の門中と同様、祖先の事績を偲びつつ、集団の絆を維持強化しようとするものと評価できるのではないか。本件施設で行われている釋奠祭禮は、そのために、祖先が、渡来人の思想的、実務的基盤として重視した儒学論語文化そのものの外部への普及のための努力をしながら、集団内部においては、儒学論語の始祖というべき孔子に対する崇敬の念を示す伝統を共有し、そのための伝統行事を催行し、継承していくこととしているものであると説明することができよう。とすれば、これは信仰に基づく宗教行為というよりも、代々引き継がれた伝統ないし習俗の継承であって、宗教性は仮に残存していたとしても、もはや希薄であるとみる余地が十分にあると考える。」

 

「実際、宗教的意義を有するとされた釋奠祭禮の主宰者である会員が他の宗教の信者であることもあるという。」

 

「そして、本件においては、宗教の教義、すなわち信仰の在り方、態様はもとより、宗教上の指導者ないし聖職者及び信者集団、並びにこれらをつなぐ一定の組織性、普及活動など、常識的にみて宗教の本質的要素と考えられる要素のいずれも認定できていない。」

 

 これこそ、林知更が上記論文で「第二層」として挙げる、宗教性が希薄化した儀礼を、世俗国家ではなく門中集団が用いるという意味でより危険性の低い場面、「共同体」の場面にふさわしい事案であったことの証左であろう。

 津地鎮祭事件における習俗論が大きくずれていたのとは反対に、本件でこそ習俗論が使われるべきであった。

 

5 公共空間内部への宗教施設の囲い込みと無害化

 仮に、「釋奠祭禮」が宗教性を持ち、「本件施設については、一体としてその宗教性を肯定することができることはもとより、その程度も軽微とはいえない」としても、なお本件免除は憲法20条3項に反さず、また20条1項後段、89条に反しないという理路も十分あり得たように思われる。

 ホッブズを逃れアメリカで生育した、多元主義をベースとする野生化した宗教団体を良しとするのは、それはそれでありではあるが、そもそもの政教分離原則の目的意識は、根源的「自由」の脅威になる宗教「団体」の無害化である。

 アメリカ流の、宗教団体は公共空間から掃き出せば、あとは領域の私的空間で何をやってたってかまわない、という構成は、不透明な徒党形成を招くためかなりリスキーな選択である。開拓者精神のあるアメリカだからこそ辛うじて採用できる手段だと言っても過言ではない。

 上記の引用では省いたが、津地鎮祭事件最高裁判決が語る以下の部分を見ていただこう。

 

「もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。わが国では、過去において、大日本帝国憲法(以下「旧憲法」という。)に信教の自由を保障する規定(28条)を設けていたものの、その保障は「安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」という同条自体の制限を伴つていたばかりでなく、国家神道に対し事実上国教的な地位が与えられ、ときとして、それに対する信仰が要請され、あるいは一部の宗教団体に対しきびしい迫害が加えられた等のこともあつて、旧憲法のもとにおける信教の自由の保障は不完全なものであることを免れなかつた。しかしながら、このような事態は、第二次大戦の終了とともに一変し、昭和20年12月15日、連合国最高司令官総司令部から政府にあてて、いわゆる神道指令(「国家神道神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)が発せられ、これにより神社神道は一宗教として他のすべての宗教と全く同一の法的基礎に立つものとされると同時に、神道を含む一切の宗教を国家から分離するための具体的措置が明示された。昭和21年11月3日公布された憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき前記のような種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至つたのである。」

 

 かかる形で、「わが国」の「過去」の経験を語ることが許されるとするならば、1995年3月に発生した、宗教団体・オウム真理教による未曽有の化学テロ・地下鉄サリン事件という「過去」をも語ることが許されるであろう。同事件では、旧上九一色村の教団施設「サティアン」において、猛毒のサリンが大量に製造されていた。教団側は、当時の「宗教タブー」を有効に利用しつつ、秘密裏に武装化・組織化を果たしていった。警察と自衛隊強制捜査が遅れたのも、教団施設内部にどのような兵器が存在しているか確認できなかったことが一因とも言われる。

 また、そのほかにも、閉鎖的な宗教団体施設での事件は、挙げれば枚挙にいとまがない。

 これは、アメリカ型政教分離の、公共空間から私的空間への宗教団体の掃き出しの帰結であるとも考えられるのである。

 そして現にアメリカでも1997年に教祖と信者39人が集団自殺したヘブンズ・ゲート事件など相当に問題のある私的領域で閉鎖的になった宗教団体による徒党化・武装化は枚挙にいとまがない。

 そうであるならば、むしろ宗教団体の宗教施設こそ、公共空間に設置したらよいのではないか。ただし、透明性、公開性(アクセスの自由性)が条件である──さながらギリシアの神殿のように。

 久米崇聖会のホームぺージ( https://kumesouseikai.or.jp/facilites/ 〔2021年2月27日最終閲覧〕)を見ると、「久米至聖廟 天尊廟 天妃宮 9:00~17:00 年中無休(参観無料)」とのことであり、本判決が指摘するように「その敷地は、至聖門、明倫堂・図書館、フェンス等により、本件公園の他の部分から仕切られている」としてもなお、透明性、公開性が十分にあるのではないかろうか。

 その意味で「公共施設なのに閉鎖的、問題視 最高裁孔子廟の運営実態「違憲」」( https://www.asahi.com/articles/DA3S14811861.html 〔2021年2月27日最終閲覧〕)という朝日新聞の記事タイトルを踏まえれば、法廷意見には「運営実態」だけではない「施設」自体の公開性(自由に出入りできるかどうか等)をも見て欲しかったと思う。

 そうであれば、残る問題は、①他の宗教団体と比較した場合の平等原則違反の有無と②地域包括性の有無になろう。仮に久米崇聖会及びその支援者が、日本各地の田舎に見られる氏神信仰を担い、夏祭りや盆踊りを開催する自治会や氏子集団と同様、地域包括性を持つ集団であるならば、その点は政教分離原則違反になり得る。また、このことから明らかなように、靖国神社護国神社、その他の地域の神社、忠魂碑、地蔵像等はなお地域包括性を持つ場合が少なくないから、たとえ透明性、公開性が担保されていたとしてもなお本件とは異なり、政教分離原則違反になりうる。

 

6 金額の多額性と後始末

 林景一反対意見も指摘するとおり、「当時の市長が年500万円以上にも上る使用料を全額免除したこと自体は、公的支援として過ぎたるものではないかという違和感を覚える」ことは事実であり、この部分については半額なり3分の2なり支払って貰うということは考えられよう。ただ、いずれにせよ、撤去までは認められないように思われる(なお、現在撤去請求が那覇地裁に係属中であるとも聞いた)。