人文学と法学、それとアニメーション。

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読んでいない論文について堂々と語る方法?―岡野誠樹「憲法-訴訟-法――違憲審査と訴訟構造の交錯――」国家学会雑誌133巻1・2号69頁以下

 岡野誠樹「憲法-訴訟-法――違憲審査と訴訟構造の交錯――」国家学会雑誌133巻1・2号69頁以下は、読むまでもなく我が国の憲法学界に一ページを刻むことが約束された論文であり、そのうち加筆の上出版もされるであろう。

 

 だから、そのうち読むことになる(嫌々ではなく喜々として)。

 

 しかし、今はちょっと余裕がないので、非常に興味があるもののすべては読めない。

 

 そこで、さしあたり目次と引用文献だけ読んで、勝手に中身を推測してこの記事を締めようと思う。

 

***

【目次】

 

第1部 司法の諸相と変容

第2部 連邦最高裁判例にみる訴訟構造の変遷

結語

 

 このうち

 

第1部が

第1章 『法の帝国』における諸確信の分節構造

第2章 20世紀後半における連邦司法の変遷の一局面

第2部が

第3章 連邦民訴規則の脈絡

第4章 サマリー・ジャッジメントと却下

第5章 クラス・アクション

 

である。

 そして、邦語の引用文献をざっと見ると、まず主軸となる憲法では宍戸、石川、長谷部、芦部、毛利、樋口。やや主筋からは外れるが背景の見透しがよくなるのが木庭、三谷太一郎、来栖。ドゥオーキン『法の帝国』をある程度大きく使う以上は内田訳ももちろん外せない。まあ、こういう磁場の中で展開されるのだというのが概ねわかると思う。

 

 ところで、ここまでの時点で、私には自由連想される本があった。

 田中英夫=竹内昭夫『法の実現における私人の役割』(東京大学出版会、1987)である。

 これはしばらく罪本になっていたものであるが、アマゾン様から配送されてきたときに、ざーっとだけは内容を把握していたため、岡野論文を読んだ際に連邦民訴規則やクラスアクションで主題がデモクラシーということでまさにピンときたのである。なぜピンと来たかと言うと、なんのことはない、私もまずは木庭~トクヴィルのルートからのアメリカ社会、特に(フランスと対比されるところの)野生の団体について、なぜ徒党化せずに(ただし、ヘヴンズ・ゲート事件と我が国のオウム真理教事件の相似には注意が必要)政治システムに上手く組み込めているのか?というあたりに関心があり、二大政党制、ティー・パーティ運動、政党といえば三谷太一郎の大日本帝国憲法下での元老に代わる硬性分権憲法の穴埋め役「統合」の担い手としての「政党」イメージ、(中野登美雄の『統帥権の独立』とそこでの穂積八束の「沈黙」の扱い!)それは高野秀行『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』(集英社、2017)に出てくるソマリア内戦の和平調停プロセスで武装解除と並行して人工的に三部族を作出し、選挙時に強制的にどれかに割り振り、それを政党としたというどこの古代ローマだ、というツッコミまではひとしきり考えていたからである。

 ちなみに2020年4月14日現在約半分まで読み進めた感想は(以下twitterから抜粋)、

 

田中英夫=竹内昭夫『法の実現における私人の役割』を読んでますが、やっぱりアメリカはデモクラシー、個々人が社会を動かす国なのだなぁと。そのための手段が司法。岡野誠樹論文の骨格は(木庭のデモクラシー論に目配せはしつつも)やはりこの本のパースペクティブだろう。/懲罰的損害賠償とか三倍賠償とか、とにかく消費者・証券・公害系での私人が企業を相手にした提訴のインセンティブのつけ方がえげつない。これも「対企業についてガンガン個人に訴訟やらせるぞ!」というプリコミットメントがあるから。クラスアクションや納税者訴訟など法制からして日本とは違う。/翻って日本法の圧倒的なインセンティブのなさ。これは日本では企業の力が強く企業が社会システムの一部となっていたからだろう(終身雇用、年功序列がそのまま社会の安定に繋がる丸抱え構造)。もちろんそれだけではなく背景にはデモクラシーの不在、お上から与えられた司法観がある。/近代国家につき独日と対比しての英米という形で、法治国対法の支配という理念型での分類があり、これは基本的に妥当だと思うが、法制史絡みから江戸期の司法を見てるとドイツよりもさらに非デモクラシーの具合が高い気がするのよね(「明治維新で上から押し付けられた」云々より前からそうでは?)”

 

 であるにもかかわらず、なぜか岡野論文第1章で『法の実現における私人の役割』が引用されていない!

 

 私の見込み違いか、それとも第2部以降に出てくるのか、あるいは20世紀後半だから田中=竹内はもう乗り越えた、ということのなのか。

 

 いずれにせよ興味が尽きない。

 

 なお『法の実現における私人の役割』を読んでいるとやっぱり某笑うメソッドの財政回や、そことは直接は関係ないけれどアメリカ、私人による公益の司法を利用しての実現、私的法務総裁、injunctionというあたりで堀澤明生「アメリカ法における行政主体の「公訴権」の歴史的展開(1~3・完)」自治研究93巻(2017)9号94頁以下、11号(2017)82頁以下、94巻3号(2018)99頁以下及び同「アメリカ『公訴権』の古層―形式主義と機能主義のはざまで―」神戸法学雑誌68巻1号(2018)123頁以下が連想される。

 

 ちなみに、ある人の指摘によれば、この岡野論文こそは、蟻川恒正・木庭顕・樋口陽一「[鼎談]憲法の土壌を培養する」法時90巻5号67頁で木庭が指摘する「東大法学部に今年提出されたばかりの或る助教論文」であるそうである。