人文学と法学、それとアニメーション。

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アイデンティティ、差異、承認──『五等分の花嫁』シリーズ評註

四葉のコンプレックスの原因は、現代人のほぼ全て、つまり我々と共通する、自分の代わりはいくらでもいる=必要とされないことからくるアイデンティティの不安定さ(危機)である。

前近代では移動の自由や職業選択の自由はなく、だいたい生まれてから死ぬまで同じ村で暮らすのが当たり前であり、そこでは「私が何者か」は自明であった。問う必要すらなかった。

しかし、近代に入り土地と労働が市場化され、移動の自由や職業選択の自由が保障されると、「自分が何者か」は自明ではなくなった。アイデンティティの危機である。

そして、そのアイデンティティの危機を克服する鍵は、市場や労働といった取り替えがきく関係ではない、取り替えがきかない関係、端的に言えば「愛」関係、ごく私的・個人的な関係構築=承認である(アクセル・ホネット)。

6年前の四葉から、あるいは風太郎から出てくる「必要とされる」人になる、という課題は、新自由主義的規範の内面化の可能性が高く、それは容易に「必要とされない」人の社会からの排除や抹殺に結びつく思考たりうるが、他方で、社会からの排除や抹殺に結びつけない形で「必要とされる」人になることは──最低限の他者との差別化と排除がなされることにはなるものの──アイデンティティ形成のために必要なことでもある(輪るピングドラム』におけるテーマがまさに、「選ばれないことは、死ぬこと」、反転としての「見つけてくれて、ありがとう」「生存戦略、私を離さないで」だったのと同じように)。

本作中で繰り返される、見た目がよく似た五つ子を見分けられるかどうかは「愛」に基づき、どれだけ時間を過ごして、小さなクセに気づけるかにかかるという警句は、まさにこのことにかかわる。

アイデンティティの危機を乗り越えて生きていくためには、「愛」されること、すなわち「承認」されることが必要であり、その前提には「アイデンティティ」(identity)の「同定」(identify)がある。そういう連関がある。

本作は、それを見た目がそっくりで喜びも悲しみも5等分の教条を持つ5つ子の中の1人の内心問題とすることで極大化しているといえる。

 

風太郎が四葉を選ぶ決め手は「五人のうち誰を最初に認識できるようになったのか?」である。それはすなわちidentity(アイデンティティ)をidentify(識別)できるということであり、まさに「特別な五人の中でも更に特別な人」ということである。似た他人から識別できるということはその人が何らかの意味で特別な人であるということである。

同じ背格好のidentityの無さを嫌って最初にidentifyのためのリボンをつけた四葉が、五人から頭ひとつ抜け出たつもりでしかし落第し、四人の想いに触れて反省し、なるべくidentityを消そうとしてきたところにきて、風太郎に他の四人ではない自分が選ばれたことで、identifyのリボンを捨てられる。そういう構図である。

 

言うまでもないことであるが、四葉が最後、緑のリボンを捨てられるのは真に自律できたことの示唆である。緑のリボンはそっくりの五つ子から自律するために必要だったわけだが、真の自律は、そのような外部的メルクマールによるのではなく真に内面から出なければならないということである。

そして、その先にしか五人姉妹の「馴れ合い」ではない、真の「連帯」はありえなかったのである。あるときは味方であり、あるときは敵だというのは、個々人が個人として自律しているからこそそうあれるのである。

 

また、四葉は今の風太郎が着実に勉強を積み上げてきたことに対してコンプレックスがある。しかし、かつて自分が生きている意味がないと考えていた風太郎に「必要とされる」存在になれるよう「大切な人のために努力すること」を説いたのは、かつての四葉だった。その言葉を間に受けて、必死に勉強したからこそ、風太郎は「必要とされる」存在となり、五つ子の家庭教師となれたのである。そして、かつて四葉風太郎に贈った「必要とされる」存在になろうという言葉が巡り巡って風太郎から返ってきてる構図も美しい。『君と、波にのれたら』の山葵が、かつて洋子に贈った「君は君だよ」がそのまま返ってくる構図とパラレルである。


※2022年6月21日1時16分、「反転としての「見つけてくれて、ありがとう」「生存戦略、私を離さないで」」部分を追記。

※2022年6月21日23時25分、最後の段落の「必要とされる」周りの話を加筆修正。