人文学と法学、それとアニメーション。

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周囲から切れている時間の大切さ──『イニシェリン島の精霊』評註

1 あらすじ

1923年、アイルランドはイニシェリン島。この小さな陰気な島で暮らすパードリックは、長年の友人コルムからいきなり絶縁を宣言される。それでもどうにか仲直り?しようと頑張るパードリックであったが、コルムからは、「もしこれ以上話しかけてくるなら(バイオリンを弾くのに必要な)自分の右手の指を順に切断する」と宣言される。しかしパードリックは話しかけを続けたため、結局コルムは右手の指5本をすべて切断し、パードリックの家に投げ込む。しかし、話はそれだけでは終わらない。その投げ込まれた指の一本を、パードリックの飼っていた自分の分身でもあるような山羊が飲み込んでのどに詰めてしまい、窒息死する。怒ったパードリックはコルムの家に火を放つが、結局コルムは生きていた・・・。海を眺めるコルムに近寄るパードリック。コルムは「これであいこだ」と言うが、パードリックは「お前はまだ生きている。あいこではない。」と返す。そこで、アイルランド本土の内戦の大砲音がやんだことをコルムが指摘する。コルムは山羊の死について詫び、またコルムの犬を火事の間預かっておいてくれたことに感謝を述べる。

 

2 何を描いているのか?

 人間、あるいは男性の孤独(「孤立」ではなく)についての話ではないかと思われる。

 その意味では、まだ日本では公開されていない(2023年3月10日公開予定)の『オットーという男』にも通じる主題であろう。

 コルムがパードリックと絶縁したのは、無駄なおしゃべりに時間を費やしていてはなにも残せないことに恐れおののいたからである。

 無論、2023年日本、あるいはアイルランドでは、コスパさらにはタイパが重視され、(特に生涯賃金や労働身分保障の観点から)無駄になるようなことは、たとえ趣味であってもするべきではなく(機会費用の問題があるから)、趣味であっても仕事で役に立つ趣味を選ぶべきである・・・というような資本主義の競争圧力が私的余暇を蚕食しつつある状況下において、「何者」言説には警戒にも警戒を重ねなければならない。

 しかし他方で、無駄なおしゃべりだけしていてもそれは無駄に時間が過ぎ、気が付けば老い、死ぬだけである。生に本来的目的などはないのだから、「人生とは壮大な暇つぶし」には違いないが、他方で余力があるなら何かを達成するのも悪くはない。それが社会が少しでも良い方向に向かうならなおさらである。そして、そのために個々人にできることは何かというと・・・他人とつるんで、あるいは依存して馴れ合うこと(この特に男性同士が行う馴れ合いを近時「ホモ・ソーシャル」というのである)ではなく、そういった馴れ合いから切断された、孤独の状況下で、しっかりと自分自身の性向・自然体が何かを把握し(Epicureanism)、それに沿った形で自分の可処分時間を割り振りなおすことであろう。

 そのようにするとすれば、無駄話をしている時間はなく、苦しくとも馴れ合いの時間を断たなければならない、そしてそれはコルムのようなEpicureanの視点を持たないパードリックにとっては、友情の切断を意味するのであるが、とにかくそうせねばならないのである。人生は短いのだから。

 そして、この主題系から見たときに、パードリックの妹が重要な位置を占める。彼女は音楽家であるコルムと同様、一人で行える趣味である読書を持っており、またその結果アイルランド本土の図書館に司書として採用される。当時としては、司書=専門職として女性が働くのは異例のことであり、奇異な目で見られたことであろう。また、20代半ば?ぐらいであって、当時であれば皆結婚している年齢であるにもかかわらず結婚していない彼女を、警察官が「行き遅れ」と侮辱し、さらに赤のコートを「みょうちくりんな恰好」と揶揄するシーンからもうかがえるように、このような趣味を持ち、周囲から切断されて孤独を味わう人間は、今以上に差別・偏見の対象とされたに違いなく、しかも女性ならばなおさらそうなのである。


 だからコルムは、「あんたにならわかるだろ」と彼女に告げたのである。

 また、酒場でのコルム、警察官、パードリックの口論の後に、コルムが彼女に向って「今までで一番面白かったのに」と告げるのは、はじめてパードリックが馴れ合いをやめて、孤独の中で一人思索して、紡ぎだした言葉が「俺はベートーベンなんか知らない!」という、コルムの歴史あるいは千年王国志向に対して痛烈な批判をかましたからである。

 ただ、コルムが指をすべて失うまで、いや、失ってもなお、この孤独の大切さに思い至らないパードリックは救いようがないのであるが、他方、2023年日本の大人たちあるいは社会人たちもまた多分にこのパードリックと同じ陥穽にはまっており、コルムの視点を持ち合わせないように思われるのが大変痛ましいと同時に、コルム側に立つ私としてはいささか息苦しい社会である。