人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

かけがえのない子供──『対峙』評註

 

ヘイドンによるエヴァンスを含む銃乱射殺傷事件から6年。ヘイドンは事件を起こした校内で自殺。

 

ヘイドンとエヴァンスの両親が、4人のみで、小さな教会の一室で面会し、会話をする。

 

この作品を言葉で表現するのは不粋であろう。

 

あの緊張感と、そして被害者の両親がかかえる苦悩、さらには加害者の両親がかかえる苦悩、今こうして思い返しても涙が出てくる。

 

***

 

たしかにパイプ爆弾を試作したり、言葉遣いが荒かったり、引っ越しで窮屈に感じたり、精神科のセラピーで加害願望を述べたり、ヘイドンが今回の銃乱射を引き起こすような兆候があるにはあった。

 

しかし、そのたびごとに、ヘイドンの両親は最善を尽くしてきた──あるいは、最善でないにせよ、ヘイドンを大切な子として見守り、努力してきたのもまた事実であって、それは、エヴァンスの両親がエヴァンスにかけてきた愛情とまた変わらないものでもあっただろう。

 

世間からのバッシング、埋葬の拒否、葬式参列者の不在、そうして「私は殺人鬼を、モンスターを育てたの…」と考え、「ヘイドンが生まれなければよかった」と思おうとしたができなかったヘイドンの母の突き詰めた思考が、エヴァンスの母の、「もしヘイドンの両親を許したらエヴァンスの生に意味がなかったことを認めることにならないか」というずっと秘めてきた考えを否定し、打ち破ることに寄与することになる。

 

無差別銃乱射殺傷事件を起こした犯人でも息子は息子、ちいさいときから大切に育ててきた息子には、ちがいないのである。その事実を、否定されるべきではないし、するべきでもない。

 

何を発しても冗談ではすまされない会話の中で、4人はあり得ないほど繊細に正確に、少しの揺らぎも許さないほどに正確に、事実を詰めていく。いつどのように、それこそ何時何分何秒にエヴァンスがヘイドンに殺されたのか──エヴァンスの父はもちろんだが、ヘイドンの父もエヴァンスの父と同じ程度に正確に、さらには他の犠牲者全てについて、死因、死んだ場所、全て正確に理路整然と語る。本当に向き合っていなければ、出てこないものである。

 

銃乱射が無差別だったか無差別ではなかったかの論争でも、ヘイドンの父は、エヴァンスの父が、ヘイドンの爆弾で瀕死の重傷を負ったエヴァンスが6分間生きていて(這った血のあとがあった)、一旦ヘイドンは教室の外に出て、しかるのちエヴァンスのところに戻ってきて、エヴァンスが命乞いをしたのに撃ち殺した、これのどこが無差別なんだ、と食ってかかるのに対して、一貫して「しかしヘイドンは犠牲者の誰とも面識はなかった。無差別だった。」と言い続け、それを4人の間で確定させる。誤った事実に基づいて話し合っても、話し合う意味がないのである。

 

***

 

何か教訓が得られる映画でも、得るべき映画でもない。

 

事実として事件があり、6年後にこの話し合いがあった。

 

その結果、エヴァンスの両親がおそらくは未来に向けて、そしてまたヘイドンの両親もまた未来に向けて、ゆっくりとだが歩き始めることができるようになった…という事実があるだけなのである。

 

(ラストワンカットで映る、有刺鉄線の向こうの球技場のナイターの光4つは、おそらくこのエヴァンス、ヘイドンの両親がこれまて真っ暗 暗闇にいた中で、今回の話し合いで差したそられぞれのかすかな光なのだと思う。)

 

ただそれだけなのである。