人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

Not disabilities, But 〇〇 with disability. ──『ケイコ、目を澄ませて』評註


もう冒頭の、恵子と松本のコンビネーション、

タタタタ、タタタタ、タタタタ、タン

タタタタ、タタタタ、タタタタ、タン

が上手く、リズミカルに決まっている様子だけですでに凄い、

ああ、これはコミュニケーションだな、と直感的にわかる。

 

耳の聞こえない恵子がボクシングをするのは、

セコンドの指示も審判の指示も聞こえないわけたから、

極めて危ない。

 

しかし、会長はそんな恵子を受け入れ、真剣に特訓させた。

恵子の日記には来る日も来る日も練習の記録がある。

 

恵子の母も、弟も、その外国人の風貌の彼女も、ジムの林や松本も、みな普通に耳が聞こえない恵子を受け入れている。

 

そういう安心できるコミュニティの大切さ。

 

おそらくそれに対抗するものとして、警察が描かれている。特にコロナ後の時間を明確に指摘する劇中では、マスクのせいで恵子は相手の唇を読めず、試合後の怪我から危うく警察に捕まりそうにもなった。

 

また、会長の難聴や視力低下、さらには脳梗塞による歩行困難の話は、実は聴覚障害を代表にあらゆる障害は、単に生まれつき耳の聞こえない恵子だけではなく必ず老い衰えていく我々人間全てについて当てはまる話なのだということを、再喚起してくれる。

 

障害一色、障害者という括りで、その人の個性を塗り潰してはいけない。

 

Disabilitiesではなく、〇〇 with disabilityなのである。