人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

プライバシーがあるからこそ見えないのではあるが。──『ザリガニの鳴くところ』評註

私はテイトが真犯人だと思っていたので、なんともいやはや。

 

要は差別偏見で蔑視していた「汚穢」を、ぐるりと180度「神聖」に転回させているので、その意味では大転換であるが、しかし、カイアが常に街の人々から「外部」として扱われている点に変わりはない(メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』)。むしろ「外部」において、「汚穢」と「神聖」の転回は容易である(「宗教」の機能のひとつはまさにここにある。あるいは石川淳『焼け跡のイエス)。そしてそれは一貫してカイアの味方であり、最後、無罪を勝ち取る名演説を打った弁護士だって、そうなのだ。「沼の娘」ではない、「本当の彼女」を見てくれと陪審員に訴えかけるその弁護士自身が、実は「本当の彼女」ではなく「沼の娘」神聖バージョンとしてしか彼女を認識できていない、そしてそこには彼自身の贖罪意識が加担しているのである。しかし、「湿地の娘」は、湿地の自然そのものと同化し、しかもその自然の解釈につき、生物は適応するために進化してきたという「俗流」進化論を鵜呑みにし、まさに編集者に話していたように、カマキリのメスがオスを食べる話を、「道徳などない、ただ生き残るために必要だからそうするだけ」と考えていたのである。

 

結局、誰も彼女を見ていなかった。

 

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もちろんその前提には、父から母やカイア含む子たちへの暴力、さらにはチェイスによるカイアへのレイプ未遂とカイアの家の物品の破壊と、DV(ドメスティックバイオレンス)の問題が控えている。

 

それが女性の「自律」あるいは「自由」にとりどれだけ脅威かも。

 

市の福祉局がグループホームに入れようとするのもパターナリズム(父権後見主義)であり、DVと同系統の問題に行きつく輻輳型である。

 

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「女性が小説なり詩なり書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」(ヴァージニア・ウルフ『自分だけの部屋』)

 

カイアの場合は小説や詩がまさに湿地の動植物百科事典そのものだったわけだが。