人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

なんとなくやりたいことは見えなくもないが…──『線は、僕を描く』覚書

 

主題は(タイトルから明らかなように)近代におけるアイデンティティ再帰性のお話。篠田湖山が明言するように、「君の線を見つけろ。そうすれば今度はその線が君を導いてくれる。」はまさにそういうことだろう。そして、そのためには自身の過去を直視し、乗り越える必要がある。わかりやすい筋である。

 

しかし、「それを水墨画というメディアでやる理由ある?」という疑問はある。

 

確かに「自然」「運命」それに「命」の意味連関は明確に描かれており、霜介以外の一家三人(父母妹)が水害=自然災害で死亡した話と、湖山が倒れた右腕に麻痺が残ったことを受けて「水墨画は自然に寄り添う。自然はコントロールできない」と言った話を受けての、「だから青山君、私は少し、君の助けが必要になる」と言ったところは、「自然」ないし「運命」により傷ついた者同士の助け合いという普遍的価値に到達したように見えるが、しかしそれは別に水墨画に限らないのではとなってしまった。このメディウムでなければダメな理由が弱い。

 

なぜ湖山が霜介に最初に弟子入りの勧誘をしたのかの理由も、千瑛の椿を見て泣いていたからだけでは説得力が弱い。

 

あと主演(横浜流星)の演技には難があるように思われる。ヒロイン(清原果耶)の演技もなぁ……もやる。

 

劇伴音楽が『劇場版ツルネ 始まりの一射』と似ていた。勝ち確入ったときの演出というか。そういう「和」に合う音楽のイデアがあるのかもしれない。

 

『ブルーピリオド』と同じで、芸術によって初めて「伝わる」ことがある、という話も出てくる。

 

いざというときに本気出す昼行灯おじさんは、『パトレイバー』の後藤課長に憧れるダメなおっさんの話が出て以降、当たりがキツいが、まぁでも日頃から西濱湖峰(江口洋介)が準備してるというところをしっかり描いてたから問題ないと思われる。笑