人文学と法学、それとアニメーション。

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ミクロの火を絶やさないこととマクロの消失の危険──『映画 『ゆるキャン△』』覚書

「私たちが今楽しいって思ってることがいろんな人たちに伝わって、また、楽しさを伝えていく。」という、日本最高峰の温泉でのなでしこのリンへの話が全てであろう。「一番最初に私にキャンプの楽しさを教えてくれたのは、リンちゃんだもん。」

 

このようなミクロな「草の根」レベルでの「人の良さ」、すなわち「共助」に賭け、少しでも世界をよくすることは悪いことではない。むしろ「公助」が期待できない場面においては「共助」に賭ける他ない。

 

そして、このような小さな思いが小さな個人から小さな個人に伝達されていくことで、公=政権が変わりうる、というのが民主主義諸国において表現の自由が保障されている前提でもある。

 

そういった形で、なでしこ、リン、大垣、犬子、恵那ちゃんがボランティアでキャンプ場を作り、土器発見で考古学館案が出て計画が挫折しかけるも、土器すら織り込んだキャンプ場整備案を再度出し直して大団円に至る、というのは、普通に良い結末である。なでしこたちがもはや普通に仕事をする大人になっているところからも、これ以上は望みすぎだろう。日常からほんの少し踏み出したささやかな幸せがキャンプであり、なでしこたちはできる限りのことはした。

 

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しかし、『映画『ゆるキャン△』』では色々と気になる描写がある。

 

・県有地のキャンプ場整備を公益社団法人経由でボランティアにやらせる

・草刈り機無しに手で草刈り(最初は)

・手作り遊具(市町村や都道府県管理の普通の遊具でさえ使用中の負傷や死亡事故の発生を恐れて相次いで利用禁止にされている現在、手作り遊具はまず作れないし、危険の点から作るべきでもない。)

・町おこし協力隊にキャンプ場管理を委託

 


といった、もはや金も人もない地方行政の状況である。山梨県でこのレベルである。もっと寂れた県はいくらでもある。

 


寂れていく地方で地方行政機関にはもはや余力がなく、市民たる個人の善意に頼るしかない、という現実もまたわかるが、今一度、そこを所与のままにしておいていいのかも考えるべきようにも思う。

 


『映画『ゆるキャン△』』は、それを無批判に見てしまうならば、キャンプという趣味、「私」への囲い込みの話、つまり分断下での個々人の努力の話になってしまい、「公」=マクロの視点が消えてしまう、そういった危うさがあるようにも思う。

 


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いやーしかし、バイクで片道4時間往復を頻繁には仕事やりながらは無理だと思うな…苦笑