人文学と法学、それとアニメーション。

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札幌地裁令和3年3月17日判決(同性婚不承認違憲判決)についての覚書

※1 以下は札幌地裁令和3年3月17日判決(同性婚不承認違憲判決)についての個人的なメモないし覚書である(が公開はする)。後日修正を施した場合には当ブログ上でその旨告知する。

※2 「本件規定」とは「民法739条1項」「戸籍法74条1号」など「民法及び戸籍法の婚姻に関する諸規定」を指す。

 

第1 本件規定が同性婚を認めていないことの憲法適合性について

1 本件規定が憲法24条に違反するか

(結論)

 本件規定が同性婚を認めていないことは憲法24条1項2項に違反しない。

(理由)

 憲法24条1項は「両性の合意」、「夫婦」と言う文言を、同条2項は「両性の本質的平等」という文言を用いており、文理解釈によれば、同条1項2項は異性婚についての規定である。

 そして、上記異性婚についての憲法24条1項及び2項の趣旨が、同性の間にも及ぶかが問題になるも、否定するべきである。なぜなら、昭和22年民法改正時の一般的知見は「同性愛を精神疾患」とし「同性婚は当然に許されない」と考えられており、それは昭和21年に公布された憲法の24条1項2項においても同様の理解であったからである。

2 本件規定が憲法13条に違反するか。

(結論)

 本件規定が同性婚を認めていないことは憲法13条に違反しない。

(理由)

形式的理由として、「包括的な人権規定」である憲法13条は「婚姻及び家族に関する事項」について規定する「個別規定」である憲法24条1項2項が優先し、上述のように本件規定には同1項2項違反はない。

実質的理由として、「婚姻」の定義(「婚姻当事者及びその家族の身分関係を形成し、戸籍によってその身分関係が公証され、その身分に応じた種々の権利義務を伴う法的地位が付与されるという、身分関係と結び付いた複合的な法的効果を同時又は異時に生じさせる法律行為」)によれば、「生殖を前提とした規定(民法733条以下)や実子に関する規定(同法772条以下)など、本件規定を前提とすると、同性婚の場合には、異性婚の場合とは異なる身分関係や法的地位を生じさせることを検討する必要がある部分もある」から「同性婚という制度を、憲法13条の解釈のみによって直接導き出すことは困難である」。

憲法公布時の一般的知見は「同性愛を精神疾患」とし「同性婚を当然に許されないもの」と理解していた、という事実は13条合憲判断に影響したか?)

3 本件規定が憲法14条1項に違反するか。

(1)判断基準

 「法的な差別的取扱い」が「事柄の性質に応じた合理的な根拠に基づくもの」かどうか。

 (高齢公務員待命訴訟最高裁判決(最大判昭和39年5月27日民集18巻4号676頁)、尊属殺重罰規定違憲判決(最大判昭和48年4月4日刑集27巻3号265頁)、再婚禁止期間違憲訴訟最高裁判決(最大判平成27年12月16日民集69巻8号2427頁)等)

その合理的な根拠に基づくかどうかは「総合考慮」で決定する。

 憲法24条2項が「婚姻及び家族に関する事項」について「具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねた」理由は、「婚姻及び家族に関する事項は、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ、それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものである」。

 

 ※1 憲法24条2項及び13条は「同性間の婚姻をするについての自由」や「同性婚に係る具体的制度の構築を求める権利」を保障していない=同性間の婚姻及び家族に関する事項を定めるについて、立法府に広汎な立法裁量がある→トートロジーでは?

 ※2 法律婚主義へのこだわりの強さ(?)と立法裁量の強調は最大判平成7年7月5日民集49巻7号1789頁(非嫡出子相続分規定事件平成7年判決)において非嫡出子相続分規定の合理性を基礎づける理由を彷彿とさせる。

憲法24条1項は、婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する旨を定めるところ、民法739条1項は、「婚姻は、戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることによつて、その効力を生ずる。」と規定し、いわゆる事実婚主義を排して法律婚主義を採用し、また、同法732条は、重婚を禁止し、いわゆる一夫一婦制を採用することを明らかにしているが、民法が採用するこれらの制度は憲法の右規定に反するものでないことはいうまでもない。

 そして、このように民法法律婚主義を採用した結果として、婚姻関係から出生した嫡出子と婚姻外の関係から出生した非嫡出子との区別が生じ、親子関係の成立などにつき異なった規律がされ、また、内縁の配偶者には他方の配偶者の相続が認められないなどの差異が生じても、それはやむを得ないところといわなければならない」

 

(2)区別

ア 区別

「本件規定は、異性婚についてのみ定めている」ため「異性愛者のカップルは、婚姻することにより婚姻によって生じる法的効果を享受するか、婚姻せずそのような法的効果を受けないかを選択することができるが、同性愛者のカップルは、婚姻を欲したとしても婚姻することができず、婚姻によって生じる法的効果を享受することはできない」点が区別である。

 区別が不合理なら上記立法裁量を逸脱する。→やはりトートロジー

イ 区別はないとする国側反論

 「同性愛者であっても、異性との間で婚姻することは可能であるから、性的指向による区別取扱いはない」。

 「同性愛者であっても、異性との間で婚姻することは可能である」というのは事実である。しかし、だからといって「性的指向による区別取扱い」がなくなるわけではない。

 「同性愛者が、その性的指向と合致しない異性との間で婚姻することができるとしても、それをもって、異性愛者と同等の法的利益を得ているとみることができないのは明らか」

 →異性愛者・同性愛者双方ともに異性婚が可能であるという点で区別がないのは事実であるが、問題は(2個人が)「永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思を持って共同生活を営む」ことが、異性愛者同士であれば可能なのに、同性愛者同士では不可能とされている点での区別なので、国による区別の設定は原告の意に沿っていない。このような国側の理屈はあらゆる「給付」の平等原則違反を争う事案で主張することが可能なロジックであり、ゆえにただのレトリックの問題であって、常に不当である(cf.平等原則ではなく信教の自由及び政教分離の事案であるが、エホバの証人剣道拒否事件(最2判平成8年3月8日50巻3号469頁)参照)。

(3)判断の厳密さ

 「性的指向は、自らの意思に関わらず決定される個人の性質であるといえ、性別、人種などと同様のもの」

 「このような人の意思によって選択・変更できない事柄に基づく区別取扱いが合理的根拠を有するか否かの検討は、その立法事実の有無・内容、立法目的、制約される法的利益の内容などに照らして真にやむを得ない区別取扱いであるか否かの観点から慎重にされなければならない。」

 国籍法違憲訴訟最高裁判決(最大判平成20年6月4日民集62巻6号1367頁)を意識していると考えられる。

(4)判断

ア 区別により生じる不利益の質と量

 「婚姻によって生じる法的効果を享受すること」は「法的利益」である(≠事実上の利益にすぎないわけではない)理由は「現在においても、法律婚を尊重する意識が幅広く浸透している」点にある。すなわち、「法的利益」に該当する理由は「法律婚はなにがしか特別なものだ、という広汎な国民意識」の存在にあるのであるから、これは物的利益というよりは精神的・象徴的利益の話ないし物的利益と精神的・象徴的が結びついた総体としての利益の話をしているのではないか?(安西文雄「平等保護および政教分離の領域における「メッセージの害悪」」立教法学44号81頁以下(1996)参照)。

 そして、かかる「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」は「憲法24条がその実現のための婚姻を制度として保障している」ことからすれば(異性愛者にとって)「重要な」法的利益である。

 では、「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」は同性愛者にとってどのような意味を持つか。異性愛者と同性愛者の違いは「性的指向」のみであるから(2個人が)「永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思を持って共同生活を営む」という婚姻の本質を異にするものではないから、同等の意味を持つ。よって婚姻によって生じる法的効果を享受する利益は同性愛者も異性愛者と「等しく享有しうる」利益である。

 →ここで判決が「かつ、性的指向は人の意思によって選択・変更できるものではないこと」をも婚姻によって生じる法的効果を享受する利益を「等しく享有しうる」理由として挙げるのは、不適切ではないか?即ち、「性的指向が人の意思によって選択・変更できない」かどうかと、そのことと異性愛者・同性愛者双方にとって「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益が同等の意味を持つ」かどうかは無関係ではないか?

→もっとも、「人の意思によって選択・変更できない」事柄を区別理由に使うべきではない、なぜなら「人の意思によって選択・変更できない」事柄で区別するということは、その区別に伴う物的・精神的利益を一方には認め、もう一方には認めないことを必然的に意味し、それは不合理な区別だからである、という形で、規範的に理解することは可能ではあろうが、それはこの「区別」パートではなく「正当化」パートで扱うべき事柄のように思われる。

イ 本件規定の立法目的

 2つある。

①「夫婦が子を産み育てながら共同生活を送るという関係に対して、法的保護を与えることを重要な目的としている」

②「子の有無、子をつくる意思・能力の有無にかかわらず、夫婦の共同生活自体の保護、本件規定の重要な目的である」

ウ 目的審査

 ①②ともに「正当」である。

エ 手段審査

(ア)「の一切」

 しかし、本件規定が異性婚のみを規定していることが必然的に持つ、同性愛のカップルに対し、婚姻によって生じる法的効果の一切を享受し得ないものとする不利益を課すことの理由にはならない。

 「の一切」という文言はなくても意味は通じる(「婚姻によって生じる法的効果を享受し得ないものとする不利益」でも意味は通じる)。にもかかわらずわざわざ「の一切」と入っているということは、これには意味がある。すなわち、判決によれば、法的効果の「一切」=全てを享受し得ないものとするのではなく、その「一部」について享受を認めないだけであれば、なお同性婚と異性婚の間の取扱いに差異があっても合憲になるのでは?→現に判決は3(4)で次のように述べる。

 

「もっとも、同性間の婚姻や家族に関する制度は、その内容が一義的ではなく、同性間であるがゆえに必然的に異性間の婚姻や家族に関する制度と全く同じ制度とはならない(全く同じ制度にはできない)こと、憲法から同性婚という具体的制度を解釈によって導き出すことはできないことは、前記2⑶で説示したとおりであり、この点で、立法府の裁量判断を待たなければならない。」「そして、我が国には、同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからずおり、また、明治民法以来、婚姻とは社会の風俗や社会通念によって定義されてきたものであって、婚姻及び家族に関する事項は、国の伝統や国民感情を含めた社会状況における種々の要因を踏まえつつ、それぞれの時代における夫婦や親子関係についての全体の規律を見据えた総合的な判断を行うことによって定められるべきものであること(前記2⑴)からすれば、立法府が、同性間の婚姻や家族に関する事項を定めるについて有する広範な立法裁量の中で上記のような事情を考慮し、本件規定を同性間にも適用するには至らないのであれば、そのことが直ちに合理的根拠を欠くものと解することはできない。」

 

この説示からすれば、同性婚に対して、婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の保護を「全く」与えないのではなく、「一部」与える規定があれば(本件規定内か外かは問わない)、本件規定はなお合憲になる余地がある。

しかし、この合憲になりうる法的効果の「一部」付与については、なお不明瞭さが残る。少なくとも2つの解釈可能性がありうる。

 

同性婚が異性婚と本質的に異なる部分での法的効果の違いを本件規定から見れば例えば子についての規定が変更されるなどの可能性がありそのことを「一部」と表現した(「一部」には同性婚には本質的に認めえない異性婚との性格の本質的違いを理由とする別異取扱いのみが許される=立法裁量をかなりの程度規律する)

「同性間であるがゆえに必然的に異性間の婚姻や家族に関する制度と全く同じ制度とはならない(全く同じ制度にはできない)」という理由づけのみが同性婚に対する異性婚と異なる法的効果付与でもかまわない(それは異性婚を認める本件規定をベースラインに考えると、特に子に関する規定などを除くことになりえ、「一部」を認め「一部」を否定する、という表現になりうる)ということであれば、それ以外の理由による区別は、同性婚に現在の異性婚の法的効果の「一部」を付与していたとしても、なお違憲である。

 

②とにかく「全否定」でなければよい(単純な比較衡量。自らの意思に基づかない事由を理由とする区別なので、手段が法的効果全否定は厳しすぎるんでは?=立法裁量は①に比較して広い)

「我が国には、同性婚に対する否定的な意見や価値観を有する国民が少なからず」いるので、婚姻によって生じる法的効果の享受を「全部」ではなく「一部」に限定する。

 

②について、かかる「同性婚に対する否定的な意見や価値観」は個人的には立法府が立法裁量を行使する際における考慮禁止事由であると思うが、札幌地裁はそこまではいかないものの、「立法府がその裁量権を行使するに当たって斟酌することができる一事情ではあるといえるものの、同性愛者に対して、婚姻によって生じる法的効果の一部であってもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においては、限定的に斟酌されるべきものといわざるを得ない。」(3(3)キ)としており、考慮可能事由であるもののそのウェイトを相当小さく見積もることとしている。(正直、「同性愛を精神疾患の1つとし、禁止すべきものとする知見は、昭和55年頃までは、国際的にも我が国においても通用していたものであり、それは教育の領域においても広く示されていたものであった(認定事実⑷ウ)。近時の調査によれば、同性婚を法律で認めるべきとの国民の意見が多数になりつつあるものの、60歳以上の比較的高い年齢層においては、同性婚を法律で認めることについて否定的意見を持つ国民が多数を占めている(認定事実⑽ア、エ)。このように、国民の総意が同性婚に肯定的であるというには至らないのは、明治時代から近時に至るまで、同性愛は精神疾患でありこれを治療又は禁止すべきものとの知見が通用しており、そのような結果、同性婚を法律によって認めることに対する否定的な意見や価値観が国民の間で形成されてきたことが、理由の1つであると考えられる。同性愛を精神疾患とする知見は、現在は、科学的・医学的には否定されているものであるが、上記のような経緯もあって、同性婚に対する否定的な意見や価値観が形成され続けてきたことに照らせば、そのような意見や価値観を持つ国民が少なからずいることもまた考慮されなければならない」とまで言うならば、考慮禁止事由にするほうが筋は通ると思うが・・・。)このことからすれば、②は説得力がない。

また、国側の、「同性愛者のカップルであっても、契約や遺言により婚姻と同様の法的効果を享受することができるから、不利益はない」という主張(3(3)ク)に対し、「婚姻によって生じる法的効果の本質は、身分関係の創設・公証と、その身分関係に応じた法的地位を付与する点にある」ことから、「婚姻は、契約や遺言など身分関係と関連しない個別の債権債務関係を発生させる法律行為によって代替できるものとはいえない」とする部分を踏まえると、「身分関係」が「婚姻」の本質であり、それはおそらく「創設」「公証」双方と関係していると窺うことができる。従って、異性婚・同性婚の規定を異なるものとする法規定が、異性婚と比較した場合に、同性婚に「一部」保護を与えないとしてもなお合憲であると言う余地があるとしても、少なくともその「一部」には「身分関係の創設・公証」を含む必要があり、また「その身分関係に応じた法的地位」を一切否定するようなことも「身分関係の創設・公証」を設けた趣旨と矛盾するであろうから、相当程度認められなければやはり当該規定は違憲とされるだろう。

そう考えると、①解釈が説得的であると考えられる。

※「身分関係の創設・公証」という「その身分に応じた法的地位」の前段階行為かつ象徴的行為が「婚姻」の本質ないし「婚姻」の法効果の本質として重要であることは、札幌地裁が繰り返し「現在においても、法律婚を尊重する意識が幅広く浸透している」と述べることからも、すなわち「法律婚は何か特別なものであるというオーソドクシーがあると一般に考えられている(だから賛成派も反対派も同性婚法律婚として認められるかどうかにこだわる)」という点からもうかがえる。

(イ)人権の本質は反マジョリタリアンにある(カロリーンプロダクツ脚注4)

「しかしながら、繰り返し説示してきたとおり、同性愛はいかなる意味でも精神疾患

ではなく、自らの意思に基づいて選択・変更できるものでもないことは、現在においては確立した知見になっている。同性愛者は、我が国においてはごく少数であり、異性愛者が人口の9割以上を占めると推察されること(認定事実⑴イ)も考慮すると、圧倒的多数派である異性愛者の理解又は許容がなければ、同性愛者のカップルは、重要な法的利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の一部であってもこれを受け得ないとするのは、同性愛者のカップルを保護することによって我が国の伝統的な家族観に多少なりとも変容をもたらすであろうことを考慮しても、異性愛者と比して、自らの意思で同性愛を選択したのではない同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない。

上記オで説示したとおり、性的指向による区別取扱いを解消することを要請する国民意が高まっていること、今後もそのような国民意識は高まり続けるであろうこと、外国において同様の状況にあることも考慮すれば、上記(ア)で述べた事情は、立法府がその裁量権を行使するに当たって斟酌することができる一事情ではあるといえるものの、同性愛者に対して、婚姻によって生じる法的効果の一部であってもこれを享受する法的手段を提供しないことを合理的とみるか否かの検討の場面においては、限定的に斟酌されるべきものといわざるを得ない。」

 

「同性愛者は、我が国においてはごく少数であり、異性愛者が人口の9割以上を占めると推察されること(認定事実⑴イ)も考慮すると、圧倒的多数派である異性愛者の理解又は許容がなければ、同性愛者のカップルは、重要な法的利益である婚姻によって生じる法的効果を享受する利益の一部であってもこれを受け得ないとする」ことは「異性愛者と比して、自らの意思で同性愛を選択したのではない同性愛者の保護にあまりにも欠けるといわざるを得ない」とする。

これは、人権がまさに社会の多数派の価値観に反してでも個人の権利を保護するものでるという本来の意味に立ち返ったものと評価できる。

(ウ)やはり平等ではなく実体的権利の問題?

 「異性愛者と同性愛者の違いは、人の意思によって選択・変更し得ない性的指向の差異でしかなく、いかなる性的指向を有する者であっても、享有し得る法的利益に差異はないといわなければならない」(3(4))

「婚姻の本質は、両性が永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思をもって共同生活を営むことにあるが、異性愛と同性愛の差異は性的指向の違いのみであることからすれば、同性愛者であっても、その性的指向と合致する同性との間で、婚姻している異性同士と同様、婚姻の本質を伴った共同生活を営むことができると解される」(3(3)エ(イ))

 

 「婚姻の本質を伴った共同生活」=「永続的な精神的及び肉体的結合を目的として真摯な意思を持って」営まれる共同生活婚姻の本質は上記共同生活実態に加え、共同生活を行っている夫婦ばかりではないことを踏まえると(cf.夫が遠洋漁業に乗り込んでいる)、やはり「公証」=「国家の代行する社会的承認」に鍵があるのではないか?

 すなわち

 

婚姻=①親密な人と共同生活を営む権利+②公証(社会的承認)を要求する権利+③相続権等の特典

 (札幌地裁の言う「婚姻によって生じる法的効果を享受する利益」というのは、おそらく「②+③」である)

  平等原則の前に、前立法的な、その意味で憲法的な「利益」でなければ、未だ存在しない「同性婚」制度について語ることはできなかったはず。平等原則は憲法上の権利はおろか、法的利益ではなく事実上の利益の不合理な別異取扱いでも発動されるが、しかし、こと「給付」の場面では、やはりその比較対象の利益は憲法上の利益なのではないか?そして、その憲法所の利益とは、上記②公証(社会的承認)を要求する権利つまりステイタス=「尊厳」を要求する権利(憲法13条、14条から導かれる個人の根源的平等としての尊厳)の一態様なのではないか。つまり、同性愛者は異性愛者と同様に、「社会(ないし国家)=みんな(ないし右翼以外の大多数)から社会的ステイタスを承認してほしい」ということである(石川健治=イェリネック的な議論の立て方)。もっとも、これは、未婚者との間で、さらには三人婚や複婚を求める者たちとの間でなおも尊厳剥奪=差別の問題を生み続けるであろう。論理的には異性婚、同性婚含めた法律婚の全廃が必要なのかもしれない(リバタリアニズム?契約解消論?)。

 

第2 国賠法上の違法性について

在外投票制度廃止違憲国賠(最1判昭和60年11月21日民集39巻7号1512頁)、在外投票制度違憲国賠(最大判平成17年9月14日民集59巻7号2087頁)を踏襲し、そのままあてはめているだけ。目新しいことはない。

 

第3 あるべきレメディ?

立法府への義務付け訴訟とかは難しいですわね・・・

 

第4 あるべき将来?

 個人的には「性的指向による区別取扱いを解消することを要請する」「国民意識は高まり続けるであろう」し、若い世代ほど寛容(つまり将来的には同性婚支持派が増え続ける)だから、だったら時計の針を早く進めて直ちに同性婚を制度化するべきだと思う。