人文学と法学、それとアニメーション。

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アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』に対するささやかな違和感――積み上げの無さとバットエンド

 本作が公開された2020年12月25日から既に1週間以上を経過し、原作や実写版との対比の関係で本作を批判する論考が多数公開されている。

 

 私は原作も実写版も見ていないので、その観点からの批判はできない。

 

 しかし、アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』については、見終わった後に、「ちぐはぐさ」「爽快感のなさ」とでもいうべき違和感が残った、と言うこと自体は許されよう。

 

 これは原作や実写版との対比の結果導かれるものではなく、徹頭徹尾アニメ版のテクスト内在的な疑念である。

 

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 それは、一言で言うならば、「恒夫はなぜジョゼのことが好きなのか?」「ジョゼはなぜ恒夫のことが好きなのか?」ということが、障害をスルーしたことできちんと描けていない、そしてそれが結局、一見するとハッピーエンドであるが、しかし、ほぼ全く何の保証も、説得力もないとしか形容しようのない結末に繋がっている。これが「爽快感のなさ」の正体であろうと思われる。

 

 つまり、ハッピーエンドに対し、ハッピーエンドが全く担保されていない。

 

 それが課題だったであるにもかかわらず。

 

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 眼鏡をかけているひとが出てきたからといって、誰も気にしたりはしない。それと同じように車椅子をフラットに扱うのがこのアニメ版――2020年版の原作からの進化である、「理想」を描いているのだからこれはこれでアリ、こういう評価も見かけた。

 

 まず、この前提に対しては、もっと未来とか、別世界とか、別宇宙とか、障害がもはや障害ではなくなった、あるいはごく普通のこととして受け入れられている社会を舞台に据えたのであれば、これくらい淡白でもよいのだが、そうであるならば、まさに原作から30年経った2020年のイマ・ココを、海遊館須磨海岸公園など実在施設を映像で明示的に提示する意義が失われてしまうという反論が成り立つだろう。

 

 次に、仮に障害にフォーカスしないでフラットに扱っていること自体は問題ないとする。では何を描いているのかというと、それは映画の事前宣伝文句どおりの「青春恋愛小説の金字塔」であろう。

 

 ところが、ここで問題が生じる。

 

 「恋愛」を、さらに「ハッピーエンド」として描くなら、それは強固な信頼関係の樹立を描く必要があるはずである。そのためには、深い相互理解が必要であろう。その相互理解の際に、ジョゼは恒夫の、恒夫はジョゼの、その内心をきちんと把握する必要がある。その把握の際に、恒夫は、ジョゼの人格形成に間違いなく大きな影響を与えてきたであろう足の障害の話を絶対に避けては通れないはずである。仮に、ジョゼが全く足の障害に悩まされることなくこれまで生育してきたという事実があるならば、それは障害を描く必要がないというのはわかる。しかし、ジョゼがこれまでの生育で少なからず障害から影響を受けてきたのであれば、それを映画で規範的にどのように扱うべきかどうかとは独立に、ジョゼ自身の内心を描く際に、絶対に省略できないはずである。

 

 しかし、「恋愛」を描くに当り必要な部分を「理想」で所与のものとして押し切るということは、もはやアニメ版『ジョゼと虎と魚たち』は「障害」を描いたものでもなければ「恋愛」を描いたものでもない、非常に中途半端なものに必然的にならざるを得ない。

 

 交通事故のくだりにしても、それ自体が問題(障害を持たない人間には理解できないだろうから障害を、しかもお試し的に負わせてやろう、というのは、障害を甘く見ていると同時に、想像力をも甘く見ている)だけでなく、もし恒夫とジョゼを交通事故により同じ地位に置こうとしたのであれば、その事故にジョゼが噛んでいてはいけないはずである。なのに、恒夫はジョゼを助けようとして(結果的には無駄だったが)、事故に遭ったのであり、ジョゼにより多くの十字架を背負わせてどうしたかったのか・・・?ここもちぐはぐである。

 

 絵本の不穏な結末は最悪ジョゼの入水自殺を示唆するし、12月23日の満面の笑みから12月24日に行方不明になるのも不穏な結末を示唆するが、結局そんな重大事には至らず、最初同様坂道でジョゼを抱きとめるだけであり必然性が全く描かれていない。入水自殺はやりすぎにしても、絶対追跡されないようにして姿を消すべきであった。また、恒夫のジョゼ追跡も、結局交差点で雪上の車椅子の車輪跡が切れるからそれまでの「積み上げ」が全く生かされていない。

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 98分間一体何をやっていたのか、と疑問に思うのが当然である。

 

 つまり、「恋愛」映画として見るには、ジョゼと恒夫が結ばれるという結末に至る必然性が説得力ある形で描き切れておらず、その意味では失敗と言わざるを得ない。

 

 背景、キャラ造形、キャラの個性、個々のエピソードは非常によく、特に絵本のくだりは最高であるが、しかし全体を通しての構成のちぐはぐさがどうしてもひっかかるのである。

 

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 引照点として『映画 聲の形』がありうる。

 

 『映画 聲の形』と『ジョゼと虎と魚たち』は「障害を持つ人」が出てくる点や男女間の恋愛関係である点というざっくりした共通点があるが、両作品は大きく異なる。

 

 たしかにジョゼの足の障害が、これまでの経験からコミュニケーション面(不信)にも跳ね返っているのは間違いないが、ジョゼと恒夫はコミュニケーションが、聴覚障害はないという意味で将也と硝子ほど困難なわけではないし、また映画開始時点で恒夫の抱える問題は、将也の抱える問題とは全く種類の異なる問題(問題?)である。

 

 むしろ将也は、それこそ耳は聞こえるが、激しいいじめの対象という意味で硝子と同じ立場であり、原作中では明らかにキリストのモチーフで描かれており、将也自身も問題を抱えていたが、本作はそうではなく、恒夫は一方的にジョゼを助けて「あげる」側である。(もちろん恒夫の交通事故の件はあるが、あれはお試し障害エピソードであり、結局ほぼ後遺症はなかったようである)。

 

 そして『映画 聲の形』は、将也と硝子の、(それを恋愛と呼ぶかはともかく)、非常に強固な信頼、結びつきを、劇中に描かれたエピソードのみから十分に説得的に描くことに成功している。しかし、本作では、そのような説得力を持たせるために必要な積み上げがほとんどない。個別の、美しいエピソードが――障害者を特別視すべきではないというもっともらしいスルーの理由づけとともに――バラバラに配置されているだけである。

 

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 アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』では、「恋愛」映画であれば描かれるべきものを、「障害」を(強い障害者像/理想的な社会を打ち出すために?)スルーすることによって同時に排除し、にもかかわらず「恋愛」として宣伝するものの結局「恋愛」映画たりえず、再度「障害」が前景化するという、そういうちぐはぐさがあるように思われる。

 

 「恋愛」映画における相互理解の樹立が課題であったにもかかわらず、そこを「障害は特別ではない」の命題のもとにスルーして、なんとなくひっついたからこそ、なんとなく別れる未来が見えるのである。

 

 それが私の抱いた爽快感のなさであったのであろう。

 

 まとめると、製作者がアニメ『ジョゼと虎と魚たち』で何が描きたかったのかが不明瞭である。画像は綺麗であるし、それっぽい話は連続して登場するが、「だから?」という感想を抱く。これでは、「そのシーンという必然性」のない「それっぽいシーン」の羅列・分裂であり、必然性、説得力のある結末は描けない。

 

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 アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』のありえた結論を描いた作品として――ある人いわく、それはまさに「奇跡」の大規模な体系、つまり『聖書』なのであるが――既にふれた『映画 聲の形』のほか、Edward Zwick『Love & Other Drugs』や竹宮ゆゆことらドラ!』と比較できるだろう。


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※2021年1月6日   誤字脱字等の微修正をなした。