人文学と法学、それとアニメーション。

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(憲)法学における通貨政策の位置づけ――片桐直人「憲法と通貨・中央銀行法制に関する一考察(一)(二)・完」法学論叢158巻1号94頁以下、3号111頁以下

 片桐直人は我が国の(憲)法学における「通貨」の位置づけ及びその政策の憲法的統制について初めて手をつけ、そして現在もおそらく一人で走っている憲法学者である。[1]

 

 その我が国における「憲法における通貨」論のはしりをなすのが本論文であり、これは我が国における通貨の法的把握について探究する際に、外せない起点を形成する論文であると言わざるを得ない。

 

 この2つの論文は――文章が非常に練られていることもあって――非常に短く、しかし論旨は明快で読みやすい。

 

 片桐の整理によれば、クナップの貨幣本質論は、以下のようにまとめられる。

 

 「クナップの構造は、「~できる」ことと「~すべき」ことを峻別する」[2]ことを前提にし、「貨幣制度制定権は、国家の①新しい支払手段を記述する権限、②新しい価値単位を言明する権限、③以前の価値単位との比率を明らかにする権限」[3]である。そして、「クナップは、「貨幣制度制定権」について述べたにとどまるといえる。すなわち、このような「貨幣制度制定権」の下、「良貨」が維持されるような個別の制度について「どのようにすべきか」は別の要素として念頭に置かれているのではないか」[4]

 

 これがそのまま結論である。

 つまり、憲法上の通貨に関する規定が、「貨幣制度制定要求」を定めているのにとどまるのか、それとも「良貨=通貨価値について何か要求しているのか(例:インフレ抑止)」が分岐になる[5]

 

 そして、日本国憲法上には「通貨」についてその文字が出てこないが、「通貨」についての規定と解釈可能な規定があるか?という問いが出てくる[6]

 これに対して、片桐はマッカーサー草案等さらにはアメリカ合衆国憲法1条8節と淵源を辿ることによって、憲法83条制定時に「通貨」の文言が落ちたのは「通貨」を国家権限から外すためではないとし、「財政」に「通貨政策」も含まれると解釈しうるとする[7]

 

 以上が本稿であるが、今後の課題として

 

①「日本国憲法においても通貨価値に関する、通貨に関して「あるべき制度」が念頭に置かれている可能性がある」[8]と指摘する。

②「「通貨の価値」について「国会の議決」が要求される〔ママ〕ていること」から「中央銀行の独立性と行政権の関係」[9]という論点についてあるべき整理の仕方が従来と異なる可能性を指摘する。

 

 

[1] 「実は、ご承知のとおりこの問題を専門にやっているのは、憲法学では私一人ということですので、是非他の先生方からのご参入と、厳しいコメントを今後とも頂ければと思います。」(片桐直人ほか「座談会 日本国憲法研究会18 中央銀行論」169頁〔片桐発言〕)。もっとも、民法学においては森田宏樹「電子マネーの法的構成(1)~(4)」NBL616号6頁、617号23頁、619号30頁、622号33頁や徳永賢治「法と貨幣――課題を追う――」沖縄法制研究創刊号63頁以下など、貨幣についての議論は近年特に電子マネーとの関係で論じられている。

[2] 158巻1号109頁。

[3] 同上。

[4] 同上。

[5] なお、片桐の指摘によれば、ハイエクの『貨幣発行自由化論』でいう「貨幣発行」の「自由化」というのは、国家に貨幣制度制定権(強制通用力付与権限)は認めつつ、その上でその認定される貨幣の発行を国家が独占すべきことを廃止しようとしたにすぎない。(158巻3号115頁)。

[6] 同131頁。

[7] 同133頁。

[8] 同上。

[9] 同上。