人文学と法学、それとアニメーション。

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絶頂から転落へ、そしてフィクションへ・・・?──『TAR ター』覚書

TAR ター に対する画像結果

 

ひとことで言えば『平家物語』である。

 

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まず、冒頭の文字が長い。

 

監督や役者の紹介、本来であればエンドロールにあるような内容が長々と流される。

 

プロロール(?)でエンドロールをやっているのである。

 

そして、その意図は、エンドロールが極端に短いことと内容からすぐにわかる。

 

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冒頭、女性指揮者として一世を風靡し、音楽にまつわる4つの賞を総なめした偉大な存在としてターはインタヴューに現れる。名声、金、権力、愛、すべてを持っている。

 

そこでは、「女性」指揮者としての苦労の話が語られ、その際にターが発したある単語を司会者が(性的暴行疑惑もあった)「カバノー(アメリ最高裁判事)」と聞き間違えるというエピソードが挟まる。

 

まずは大きな文脈としてフェミニズムが措定される。

 

しかし、それに加えて、「今は「多様性」は不評である、「専門家」の時代だから」とターは語る。どうやら一筋縄ではいかないようである。コロナ禍への言及も、より「今」性をあらわにする。

 

ターの同性愛、女性解放デーを巡る挿話など、一貫してフェミニズムの主題が差し挟まれつつ、他方で、バッハがミソジニストであったがゆえに嫌悪する男子学生に対するターの激烈な皮肉や、熱烈な教え子がターがかまってくれないからと自殺、ターの恩師から出たナチ裁判とキャンセルカルチャーを重ね合わせるたとえ話など「多様性」とは無関係に、「権力」を持つ者に対する「告発」の話、そしてそれにより追いつめられる「女性」指揮者・ターという構造が描かれていく。

 

ラストは、プログラムから解任され、あとひとつでシリーズ完成だった第5章の指揮者の座をライバルのマレーに奪われる。気に入っていた若手女性には相手にもされず、パートナーとも別れることになる。狂った(?)ターは、第五章の会場に乱入し、マレーを殴打する。

 

ラストは、東南アジアで再起(?)をはかるター。

 

それは、モンスターハンターのゲキ×シネ(?)という、安っぽい(といっては失礼だが)イベントの指揮だった・・・。

 

そして、短いエンドロール。

 

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結局、『TAR ター』は、ターの絶頂から転落、果てはモンスターハンターの世界への逃避(?)を描く、さながら『平家物語』ばりの栄枯盛衰譚であった。