人文学と法学、それとアニメーション。

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各人のペースで受け容れて──『中二病でも恋がしたい』覚書

六花の中二病は、父を亡くし現実を受け容れることができなかったときに、いわば心の防壁として、中2病全開の勇太をたまたま見て、そのフィクションにより現実から遊離するあり方を借用したからである。

 

(※心の防壁として突飛な衣装を纏うあり方は、さながら『SHIROBAKO』の小笠原である。)

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これは勇太が贈与を意識していない点で、実質的に見返りを求めない無償の贈与になってる。

 

大切な故人を弔う、いや、弔えるようになるのには、個人差が──時間差がある。

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そこを無理矢理社会の側、他人の側が押し付けてはいけない、ということ。

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11話の凸守が「中二病の妄想では世界は変わらない」という勇太の主張を認めつつ、それでもなお引き下がらなかったのは、それがなんであれせめてお前は、お前だけは六花の側に立ってやれよ、そしてそれは私がどれだけそうしたくても私ではできないのだからという話であって。

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中二病でも恋がしたい』は、親族が故人の弔いという個人の問題に介入することを批判し、その親族からの介入を友人の連帯がブロックするというあまりにも綺麗な構図を提示している。

 

完全に現代日本版『アンティゴネー』である。

 

また、六花が姉、母、祖父母らの「期待」に応えられず苦しみ、最後に縋ったラスト・ストローであるその勇太が、自分自身がむしろ社会の側の一員になって共に六花を追い詰めていた側だと改めて意識させられ、大転換に向かい、親族と警察を振り切って六花を助け出すところは、さながら夏目漱石『それから』の構図でもある。

 

その意味で本作はまさしく正統文学の系譜にある。

 

「退屈な日常に戻るのか、それともリアルを変えるか?」(富樫勇太)