人文学と法学、それとアニメーション。

人文学と法学、それとアニメーション。

比喩の持つ危険性――『はたらく細胞』におけるがん細胞の位置付け

「このように、英語では「病気[症状]にかかっている」は全て「病気[症状]を持っている」という所有のメタファで表されるのです。「彼はガンだ」はHe has cancer.です。(間違えてHe is a cancer.なんて言ったら、まるで彼がやっかい者だと言ってるみたいです。cf.「彼はうちの会社のガンだ」)。」(刀祢雅彦『前置詞がわかれば英語がわかる』55頁)

 

その集団から見て望ましくない人間を、「ガン」の比喩で喩えることはよくある。

 

「とりわけ文化的生活においてだが、少なくとも一人のユダヤ人も関わることがなければ、どんなかたちであれ不潔や不埒が生じることがあっただろうか。

 最新の注意を払ってこの膿瘍にメスを入れたとき、君は見出したのである。腐敗する肉体に湧くウジのように、突然の閃光に撃たれて目のくらんだやつを――ユダヤ野郎を!

――アドルフ・ヒトラー我が闘争』」

(マーサ・ヌスバウム河野哲也監訳〕『感情と法』90頁)

 

ユダヤ人とは、一見清潔で健康な身体(=国家)にできた腫瘍の膿みに潜むウジのことであるという、本章のエピグラフにあるヒトラーの主張の源泉を私たちが見出すのは、ユダヤ人とドイツ人との間に存在するとされた、まさにこの完全な相違においてである。ユダヤ人は嫌悪をもよおさせ、粘液的でぬるぬるなよなよしており、それに対し、ドイツ男性の身体は清潔で健康である。べたべたで嫌悪を催させる者としてのユダヤ人に関連するイメージは、その時代にはありふれたものとなり、子どもたちへのおとぎ話の中へさえ紛れ込んでいた。そういったおとぎ話の中では普通、嫌悪を呼び起こすおなじみの属性を持つ気持ち悪い動物として、ユダヤ人は描かれている。以上に関連した出来事として、その時代の医学的言説がユダヤ人(と共産主義者)を、ガン細胞や腫瘍、病原菌、「菌の感染増殖fungoid growth」と叙述するということが、普通に見られるようになった。そうすることで、医学的言説がユダヤ人や共産主義者を非人間化したのだった。そして、驚くべき転倒が起こる。ガン自体が、社会転覆を企みつつ健康な身体のうちに巣食う集団として記述されたのである。さらにはっきりと、「ボリシェヴィキ主義〔急進的共産主義〕」や「たかり屋」(これはユダヤ人に対するおなじみの記述である)と記述されることさえあった。ユダヤ人の事例が示しているように、集団への嫌悪感は巧みな社会工学にたびたび依拠する。」

(マーサ・スヌバウム〔河野哲也監訳〕『感情と法』140頁)

 

以上を踏まえたとき、アニメ『はたらく細胞』のがん細胞回(第7回)が、著者にそんな意図がさらさらないとしても、必然的に持ってしまう含意が理解できる。

 

同作品では、細胞を「人」、生体機能を「労働」の比喩で理解し描出するので、がん細胞は「社会的少数者」の比喩で理解されることとなり、がん細胞はその発生メカニズムに対して責任があろうがなかろうがその存在が絶対的な悪であり、人体内部での共存は不可能で、抹殺が望ましいことを踏まえると、極めて危険な含意を持つことになる。

 

ナチスユダヤ人をガンに、さらにはおそるべき転倒であるが、ガンをユダヤ人に喩えていたのである。

 

そして、ナチスアウシュビッツをはじめとする強制収容所ユダヤ人を大量に殺害した。


もっとも、本稿は「だから 『はたらく細胞』は世に出るべきではなかった」と言うわけではない。検閲には断固反対である(日本国憲法21条2項参照)。あらゆる表現は、思想の自由市場(marketplace of ideas)に一旦出した上で、内容が不適切な表現については対抗言論(more speech)による批判に晒すことで対処がなされるべきである。そして、存外それこそが批評が持つプラスの役割の一つである。


すなわち、作品自体を世に出させない(検閲で食い止める)ことは阻止しつつ、他方で作品に問題がある場合には批判を加えることにより、検閲でも放置でもない、両方のバランスを取った第三の道こそが批評なのである。