人文学と法学、それとアニメーション。

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昆布をアプリオリに優先すること――『空の青さを知る人よ』評註

※以下の叙述においては、現在の慎之助を「慎之助」、現在の御堂に現れた13年前の慎之助を「しんの」と表記する。 

 

1 主題は何か?

 多くの鑑賞者から異論が出ることを承知で言い切る。

 長井龍雪岡田麿里田中将賀が三度集う。『あの花』『ここさけ』に続く秩父3部作の集大成。本作『空の青さを知る人よ』の主題はあかねと慎之助の結婚、つまりbona fides構築の達成である。

 なぜこう言えるのか。この理由は奇しくもエンドロール、特に結婚式のくだりが完全に蛇足だと鑑賞者たちから声が上がっていることそのものに求められる。つまり、私自身もそう感じたことを含めて、「みながそう言ってしまう」という事実は、何を意味するのか。このことがまず問われねばならない。

 トリヴィアルなところからいえば、第一には、製作陣がおそらくわざとそうしたはずであること、多くの批判が出ると理解しつつそれでもあえて描いたことを強く示唆する。つまりは、製作陣がミスを犯した(視聴者を舐めている)というのでは全くなく、これは意図的な、必要な描写であるということだ。

 しかしこれだけでは製作陣がまさに〈この〉結婚という式典を選び、エンドロールに載せざるを得なかった理由にはならない。それゆえ第二の示唆は、製作陣は、第三者が言葉にすれば形式に過ぎない、陳腐だ、保守的だと憶断されてしまいがちな人間関係=結婚式典が、その内奥においては全く陳腐ではなく、紐帯の崇高さを秘めたものである、ということである。仮に形式=式典そのものが(まさしく写真に写る妹が涙を流しているように)いわゆる「泣ける」浅薄なものだからといって、それにとどまるものではなく、式典の内奥に潜む知(=高い空の青さ)は、個別的かつ豊かでありうる。[1]

 ならば結婚というイベントをその社会的意味のみによって厭うのは浅い読みであることになる。むしろ彼ら固有の関係の外に置かれたものからは「誰にとっても浅薄に見えてしまう」という事態、そしてその反面としての彼ら固有の関係の普遍性こそが、問われねばならないはずである。本稿の読みでは、〈この〉慎之助と〈この〉あかねという、交換不能な二者のbona fidesの樹立という個的な出来事をこそ捉えねばならない。とりわけ、高い空の青=「あおい」という名の子供を介したbona fidesの樹立という出来事の特異性こそが問われねばならない。

 だから画面の中心にあおいが位置する(これは揺るぎのない事実である)とはいえ、『空の青さを知る人よ』の主題は、そのあおいがどうというのではない。本作の人間関係は古代ギリシア・ローマ以来の古典にきわめて忠実な構成であることこそが、まずは確認されねばならないのだ。

 

2 結婚の障害は? 

(1)ダブルバインド

 鍵は、あかねと慎之助が和解したからといって、直ちに結婚に向かってはいないという事実にある。音楽ホール裏、(かつても、また数日前もひどい別れ方をした)彼女たちは確かに、一見したところの和解を果たすかに見える。

 

 あかね「じゃあ、別の曲をリクエストしていい?『空の青さを知る人よ』。ちゃんと買ったよ。しんののソロデビュー曲」

慎之助「黒歴史だろ…」

 あかね「『ガンダーラ』と同じくらい好きな歌なんだ」

 (中略)

 慎之助「やっぱ、なんかいいな、お前といると。落ち着くっつーか。俺、戻ってこようかな。別に、今の仕事で先があるってわけでもねぇし。なんつーかさ、周りも、堅い仕事に就き出して、身を固めててさ。俺もいい加減、そういう歳なのかなって」

あかね「なーに言ってんの。今の時代、三十そこそこなんてまだ若造でしょ?落ち着くのはまだ早いっての。私はまだまだ諦めてないよ?いろんなことを。これからだよ」

 

 それゆえ直ちにわかるように、この和解は限定的なものだ。直後にあかねは泣いている。声を殺して。しかし、なぜあかねは、慎之助を(ある意味では)突き放しながら、涙を流すのか?今まさに直ちに手を取ることができる、目の前のプロポーズを受けないのか。

 ここでは、あかねが結婚を承諾することは容易だった。これは事実である。だから慎之助の手を取りたかったこともまた確かであったが、しかし、手をとってはいけないとも考えている。これもまた事実である。これは、当然ながら、慎之助の将来性などという卑近な話ではない。慎之助が「ロックバンドで食っていく」ことはできているものの演歌歌手のお抱えで、先もないとかいったことでは全くないのだ。そうではなく、少なくとも、慎之助の現在への向き合い方では、あかねと慎之助の望ましい関係が構築できたとは考えていないために、自らの現在の気持ちに抗して、慎之助の背中を押す役割に徹しているのである。

 

(2)「のため」は約束でも呪いでもない

 そこで今一度問おう。なぜだろうか?あかねと慎之助の結婚の障害は一体何だったのか?

 元の動機は明白である。「あかねえ連れてくな!バカ!」と御堂前に乗り込んできたあおいのためである。そして、今なお続く、そうしたあおいのためにあらゆる努力を厭わないあかねの選択についての、しんのの無理解のためである。

 これまで「あおいのため」と言ってきたが、これは、あかね自身が自らの言葉によって誘導されているだとか、あおいのせいでそうしている(とあおいは誤認・憶断していたが…)という意味では全くない。というよりも、あかね自身の主体性は、まさにこの秩父の地における、あおいという者との生活にあるのであり、その力強い意志にこそ慎之助は目を向け、その意志に寄り添わねばならなかったのだ。音楽を捨てるとかいう話ではなしに。自らの音楽について背中を押してくれたその人・あかねの背中を押すために。

 このことを説明するのが、次のあおいの言葉である。

 

 あおい「好きな人の想いを応援できなかったら、ずっと後悔するんだって。あか姉を応援できなかったから、知ってる」

 

 あおいはかつて自らの口をついて出た言葉、「あか姉つれてくな!あか姉とあおいは、ずっといっしょなんだからああっ!」が、あかねを縛るものだと考えていた。しかし、事実はもちろんそうではない。あかねは、そんな言葉に拘束されるほど弱くはないし、そのような呪いによってあおいを愛していたのではない。もちろん、あかねは超人ではないのであり、その「ずっといっしょ」を一緒に歩んでくれる誰かを待ちながら、あおい攻略ノートを作り、自らの意志で「空の青さ」を掴み取ってきた。そんな弱さを抱えた存在でもある。

 かつてあかねとあおいの両親が事故で死に、しんのとの東京行き(音楽としんのさえいれば良いという欲望)を断ったあかね。だからこそ、そのあかねにとっての最愛の妹を、慎之助が主体的に同じく最愛とすることなくしては、和解は成り立たない。bona fidesの下では、約束は他者を拘束するためではなく、他者を最も「良い」状態へと引き上げるためへとなされるはずだ。「井の中の蛙」の自覚の下で、なお、「空の青さを知る」ことができるためには、(現に一緒にいるとか、社会的に姓を同じくするとかとは全く別次元の)こうした精神的紐帯が求められる。

 両親を失い両親の役割を引き受けた(あるいは、引き受けざるをえなくなった)あかねにとって、幼い妹あおいは子供のようなものである。子供は親にとってなによりも大切にされなければならない。相手の子供を尊重することは、相手が最も大切にしているものを尊重できるということであり、つまり相手を最大限尊重できるということなのである。

 かかる理想の関係構築の達成がすなわちbona fides構築の達成である。であるから、しんの=慎之助にとっての、本作におけるあかねとのbona fidesによる結合=結婚のために必要な課題は、あかねと同じ程度にあおいを尊重できるかどうかにかかるのだ。

 

(3)補論:なぜ中心はあおいではなかったのか、その答え

  このことが、冒頭に述べたように、本作の中心に位置するのがあかね-慎之助関係であることを確証する。つまり、エンドロールの「なぜ」に答える理由となる。

しんのはあおいに対し、「将来うちのベースな!」「俺たち、目玉スターだな!」などと言い、あおいにそれなりに優しく接していた。他方で慎之助は「ガキの遊びと一緒にしてほしくないんですけど」「女にベースなんて向いてない」などあおいに対し酷い言葉を浴びせる。この対比からすれば、しんのは慎之助よりも遥かにマシで、それで課題の達成としては十分だったのではないか?とも思われるかもしれないが、そうではない、というのが制作側の判断である。すでに述べたとおり、もしもあおいがあかねとしんのを愛するのであれば、まさにその愛の対象を愛さなければならない、つまりは、後悔によって縛られたしんのが解放され、〈いま〉をよく生きる慎之助となる(消滅する)ことを受け入れなければならないのだから。

 このことはもちろん、しんの側にも当てはまる。求められることの一つは、しんのにとって、小さなあおいをほっぽりだしてあかねと二人で東京に行くという選択を絶対にしないことでもある。大前提としてあおいの前にあかねを尊重することも当然必要であるからだ。[2]

 それがわからないならば、「空の青さ」の意味は、音楽ホール裏での会話のように、地元もいいとか、落ち着くとかいう俗流解釈のままにとどまり、他者が愛するその対象(=あおい)を愛するということを、決して「知る」ことはできない。

 

3 課題の達成

 これは、あかねが作るおにぎりの具を自分の好きなツナマヨで優先するのではなくあおいの大好きな昆布で優先することでもある。

 考えても見れば、冒頭から最後まで、あかねと慎之助(そしてもちろんしんの)の間における他愛もないやりとりには、おにぎりの具があった。

 

 あかね「今日はオール昆布だよ」

 しんの「えええ!?なんでだよあかね!ツナマヨがいいって俺、一万回は言ったよな!?」

 あおい「昆布がいい」

 

 その上で、お堂でおにぎりを一つかっぱらったことを介して、終盤のトンネル内でのしんのとあかねのやりとりを思い出されたい。

 しんのが言うには「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」を「知っちまったらツナマヨが昆布に勝てないのは仕方ない」のであり、それに対してあかねが「あおい、可愛くなってたでしょ?」と返す。

 つまり、ここで言う「青さ」とは「あおい」のことであり、映画冒頭で「1万回言った」ツナマヨ主張がたった1回のあおいの「昆布がいい」に負け続けたその理由をこの場面でしんのは心から理解している。「知っちまったらツナマヨが昆布に勝てないのは仕方ない」とは、このことを意味している。そして、その理由がわかる、ということは、すなわちあおいに対する慈愛の心をあかねと同じレベルでしんのが理解したということを意味している。

 

 ここに、課題の達成はなった。

 

 もっとも、しんのは未だ慎之助ではない。というより、しんののセリフは、未だ慎之助の声帯を震わせて、あかねに届けられてはいない。

 しかし直前、慎之助も御堂から自分の足で走ってあかねを助けに行くという行動を既に起こしており、しんの(とあおい)に動かされる形であるが、なんだかんだあかねのために行動を起こしていたのである。

 事実上のエンドロール[3]であるあかねの車内で、「だから、お前も諦めない」と言う慎之助。

 それに対し、「今度、ツナマヨおにぎり作ろうかな」と返すあかね。

 あおいの尊重という課題=昆布の尊重は達成されたからこそ、あかねは昆布を選ぶしんの=慎之助のためにツナマヨおにぎりを作るのである。

 

4 後記 2つのパラデイグマ

  本作の基層を形作る第一のパラデイクマは、――本作のタイトルからも明らかであるが――この「井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る」である。

 あおいの中二ピピック的認識では、秩父は四方を山に囲まれた盆地であり、巨大な牢獄にとらわれているのである。

 そして、高校の卒業文集に「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」と書いたあかねもまた、秩父を「井の中」だと把握していたことがうかがえる。

 

 「井の中の蛙大海を知らず、されど空の青さを知る」。

 

 前述のとおり、終盤のトンネル内でのしんのとあかねとのやりとりからすれば、「空の高さを知る」という原ヴァージョンではなく「空の青さを知る」という改変が加えられているヴァージョンになっているのは、「青さ=あおい」の掛詞である。

 つまり、「大海」たる「東京」ではない「井の中」たる「秩父」における、あかねのあおいに対する慈愛=「青さ」である。

 そして、もちろん「井の中」である「秩父」の実際の「空の青さ」=田舎で東京と違って何もないけど、しかしかけがえのない日常がここにある、という意味もある。

しんの初登場後に御堂のある小山の階段の上から街を見下ろしながら、ツグに対して「あかねえを秩父に縛り付けているのは自分」だという認識を示し、「トーキョーに出る」というあおいが、しんのと一緒に飛んでいた秩父の空は「こんなにも青かった」と気づくのである。

 つまり、本作の基層をなすもう一つのパラデイクマは、『幸せの青い鳥』である。

あかねは「お堂に閉じ込められたしんの」が生まれたあの夕暮れ、自分の意思でしんのではなくあおいを、そしてこのあおいのいる秩父を選んだのである。

 それは、市役所の渡り廊下でミチンコに「私の主体性をそこまで疑う?」「私は自分で選んできた」とキレていることからも明らかである。

 かつて『ガンダーラ』を歌い「大海」たる「東京」を目指したしんのと、「東京」を目指し『ガンダーラ』を歌うあおいはパラレルである。

 そして、東京で現実の辛酸をなめかつての自分=しんのと同じように夢を見ているあおいが、そして『ガンダーラ』を歌うあおいが、慎之助にとってはさぞ目障りだっただろう。

 バックバンドのサックスのおじさんの「なんで『ガンダーラ』?」というセリフと同じセリフを、しかし意味は異なってであるが慎之助も浮かべたに違いない。

 その慎之助が、タクシーから降り土砂崩れに巻き込まれたあかねのところに向かうとき、どこに行くのかと問われ返す答えは「ガンダーラだよ!」である。

 そう、ガンダーラは東京ではなく、ここ秩父にあった。

 これは、それにあおいだけでなく慎之助もまた気づいていることを示している。

 

※本稿はアニメクリティークvol4.6Ⅱ(アニメクリティーク刊行会、2019年)という論集(発刊趣旨はhttp://nag-nay.hatenablog.com/entry/2019/08/12/225430)の一環として執筆された拙稿(フクロウ「昆布をアプリオリに優先すること――『空の青さを知る人よ』評註」)である。元の原稿の作成にあたってはアニメクリテイーク刊行会編集のNag(@Nag_Nay)さんに非常に大幅な加筆修正をいただいた。この場で感謝申し上げる。

 

 

[1] 本作では、会合や「お酌」などに顕著なように、古めかしい因習じみたやりとりや所作、規範が次々に現れる。結婚の話題も序盤から繰り返し出されており、これらに類する陳腐な話題の一つように見えたかもしれない。しかし、本稿の見るところでは全くそうではない。本作では、〈この〉慎之助と〈この〉あかねの間に、過去の亡霊=13年前のしんのが挟まっているのみならず、しんの-慎之助-あかねの間に置かれた現在のあおいもまた挟まっているからだ。物理的に秩父を出て行ったけれども13年前の心残りを抱えたままの慎之助。物理的に秩父を出はしなかったけれども13年前決断の上で「今」を見据えるあかね。この二者の関係を動かそうとするのが、過去の亡霊・しんのであり、その亡霊に恋をするあおいなのである。

[2] ましてやそれは慎之助にとって、13年ぶりに再会したあおいに対して、酒も入ってホテルの部屋でもあるからと、「一緒に飲みなおそうぜ、相生さんよ」「その歳でもったいつけんじゃねえよ」というような雑なアプローチをしないことである。もっとも、どう考えても慎之助は大きな夢を語りながら結局演歌歌手のお抱えバックバンドというダサい仕方でのあかねのもとへの「凱旋」となってしまったわけであり、ヤケクソであるし痛いほど気持ちはわかるのだが、それでも関係をワヤにしてしまう言葉というのは存在する。一本背負いをした上に、「がっかりさせないで」というのもよくわかる。当然、そういうアプローチではダメである。

[3] 本来はここで切っておけばよかったのだが。